その晩バルトーズ家で開かれたパーティーへ叔母と共に出席したアンヌは、やはり無理をしてでも来ることにして本当に良かったと心から思った。この1ヶ月の間全くその姿を見かけることができなかったルウェリン伯爵が、彼女が広間へ入った時には既に広間の隅でグラスを傾けていたのだから。アンヌの双眸はすぐにその隣を陣取る黒髪の女性を映し出すものの、それに心を痛めてまでもウィリアムを見つめずにはいられない。彼を一目でも見てしまえば、その日同じ場所につどった他の男性たちは何とも色褪せて見えてしまうものだ。だからこそアンヌはウィリアムの目に触れない方へ連れて行こうとする叔母に従いながらも、密かな視線を送るのを止めることはどうしてもできなかった。
 彼ほどの人物であればいつどこのパーティーに現れたのかは誰でもすぐに知ることができる。それまで10日に1度は姿を見ることのできたウィリアムが、アンヌではとても立ち入ることのできないような高貴な家での歓談に加わっていたと知る度、涙まじりのため息を一体どれほど零しただろう。今夜こそ逢えるのではないかと儚い望みを抱いて社交の場へと赴く度、想いの報われぬ寂しい時間を幾晩にも渡って過ごしたものだ。
 しかしそんな辛い日々も彼の眸を目にすればあっという間に忘れてしまう。引っ切りなしに話し続ける隣の女性に若干うんざりしたような表情でさえ、素敵に魅せてしまえるウィリアムは群を抜いて人目を惹いている存在だった。

「アンヌ、飲み物をいただいたら少し踊ってきてはどうかしら?」

 酔わない程度の果実酒を手渡しながらブライトン夫人が声をかける。アンヌはそれに頷くとほのかに甘い飲み物に形ばかり口をつけ、半ば義務めいた思いで次のダンスを待つ女性たちの輪に加わった。だいたい同じ歳頃の彼女たちはアンヌと同じく地方出身の者も多く、既に心に決めた相手がいようといまいと皆それなりにこの場を楽しんでいる。社交界というとぎすぎすした関係を思い浮かべることも多かったアンヌだが、そこは心配性の叔母が“安全”な催しを選び抜いていることもあり、不運な経験をすることもなく無縁でいられたのだった。
 しかし社交シーズンも複数を数える者、元より王都が出身の者たちは今日に限ってどうにも様子が落ち着かない。だがアンヌがその理由を尋ねるよりも早くしばらく続いていた音楽は終わり、待ちかねた彼女たちの出番はすぐに回ってきてしまった。

「カッシング子爵令嬢、一緒に踊っていただけますか?」

 今夜最初にそう申し込んだのは金髪のトライヴ男爵で、まだ若く爵位を継いだばかりの彼は娘たちの間でも人気がある。頷いて右手を預けたアンヌを嬉しそうにエスコートしながら、2人は新たに流れ始めた軽快な旋律に乗って踊り始めた。

「春の終わり、1度一緒に踊ったことを覚えていますか?」
「は、はい。もちろんです」

 彼はお世辞にもあまりステップを踏むのが上手いとは言えないこともあり、その足を蹴飛ばさないよう注意しながらアンヌは何とか返事を返す。

「嬉しいな。あなたと踊るにはいつも順番待ちをしなくてはいけないから、今夜はかなりついていたということですね」
「そんなこと……」
「いつかあなたを僕の領地にある湖に連れて行ってあげたいものです。この時期は白鳥がたくさんいてとても綺麗なんですよ」

 そう言われたアンヌはふと涼しげな湖畔を誰かとそぞろ歩く自分の姿を思い描く。だが残念ながらその空想を彩ってくれるのは手を携えて踊っている相手ではない……。

「それにしても、あの人はいつまでパーティーに顔を出すつもりなんだろうなあ」
「え?」
「ルウェリン伯爵のことですよ。もう決まった人がいるのならわざわざこんなところへ来る必要なんて……っ痛!」

 今まさに思い浮かべていた相手の名前にアンヌは思わず注意を忘れ、トライヴ男爵のぎこちない足をこれでもかとばかりに踏んでしまう。

「も、申し訳ありません。私、何てことを」
「いや、大丈夫。あなたもあまりダンスは得意ではないのかな? よければあちらでお話しでも……」

 ちらりと庭先に視線を投げかけられたアンヌは内心で深いため息をつく。2人きりになってはいけないと叔母に申し付けられていなかったとしても、彼とは元よりそうしたいとは全く思えないのだから。

「お気持ちは嬉しいのですが、叔母を心配させたくないのです。もう少しここでお話ししても構いませんでしょうか」
「ああ、これは失礼しました。ええと、何の話をしていたんだっけ……」
「ルウェリン伯爵に決まった人がいらっしゃるとか」

 心なしか声を落としてそう言ったアンヌに、トライヴ男爵はふと苦々しそうな表情で答えた。

「そうでした。あなたもご覧になりませんでしたか? 黒い髪の……ほら、あそこで伯爵の隣にぴったりと寄り添っている女性を」

 ターンをしながら示された方向に向かってちらりと視線を投げれば、先ほど目にした黒髪の女性がウィリアムの腕を引く姿が見える。どうやら彼女はダンスをしようとせがんでいる最中らしいのだが、王都に来てからこんなにはっきりした顔立ちの女性を見かけたことなどあっただろうか……?

「あなたは今年が初めての社交シーズンですからご存知ないでしょうが、エルストン伯爵令嬢は数年前からルウェリン伯爵に熱を上げていることで有名です。今までは伯爵の方に身を固めるつもりがなかったようですが、彼女の父上も反対はしていないようですし、いずれあの2人は結婚するだろうというのが巷の専らの噂ですよ」
「!」

 抱いている背中がびくりと跳ねたことにも気づかないほどトライヴ男爵が鈍感だったことはアンヌにとっては幸いだっただろう。しかし1度耳にしてしまったその言葉を忘れ去ることなどは到底できず、ナイフを突き立てられたような鋭い痛みはあっという間に全身を苛んでいく。

「ルウェリン伯爵がどんな経歴の持ち主であれ、真剣に結婚相手を探す気があるのならこういう場に来てほしくないとは言いませんが……特定の相手がいるのならもっと相応しい場所もあるでしょうにね。おかげで今日は皆彼らに気を取られて落ち着かない様子だし。僕としてはあなたがああいった人に興味がなさそうなのは嬉しい限りですが」

 彼がまだ話し続けているというのに、アンヌはもう何も聞こえてはいなかった。ウィリアムには結婚も間近と言われる相手が存在する、その衝撃だけがいつまでも頭の中を回り続ける。不特定の多数ならば悲しいがまだ微かな希望も持てた。だが特定の相手がいるとなれば望みなど消えてなくなってしまうだろう。
 気づいた時にはダンスの相手が変わっていて、それも何人目だったのかという記憶さえ定かではなかったが、果たして自分は失礼なことなどしてはいなかっただろうか。密かな恋の終わりは突然で、この場にいることまでもが酷く辛い。アンヌは音楽が終わると同時に叔母の元へと駆け寄り家路を急ごうとしたが、そんな彼女の腕を一瞬早く捕らえて留めた者がいた。

「すまないが、1曲お相手願えないか?」
「……!」

 断りの言葉を口にしようとしてゆっくりと振り向いたアンヌはしかし、何も言うことはできずに黙ってその場に立ち尽くすしかなかった。そこにいたのは憂いを孕んだ緑の目をしたルウェリン伯爵――夢にまで見たウィリアム・クリストフェル・アマーストその人だったからだ。