ヴァネッサ・ベルナデット・キプリングは艶めく黒い髪をした背の高い娘で、歳はアンヌよりも3つほど上だったように思われる。一見華やかな印象を与える美女だが、2年前に泣きつかれた際に溶け出した化粧の下は存外地味な顔立ちだったことをウィリアムはまだ覚えていた。自分の何がそんなにも彼女の注意を引いてしまったのか検討もつかないが、ヴァネッサいわく彼は“結ばれるべき運命の相手”であり、ウィリアムもいずれはその強い絆に目覚めると信じて憚らない。歳を重ねるにつれ物静かな女性を好むようになった彼の趣味とは対照的に、ヴァネッサは世界が自分を中心に回っていると豪語して憚らない性格であり、甘やかされて育ったその振る舞いには慎ましさというものがない。従ってアンヌを引き合いに出すまでもなくウィリアムの好みとは正反対であり、彼自身そのことを事あるごとに示し続けてはいたのだが、拒めば拒むほど躍起になるヴァネッサは飢えた獣のように彼を追い続けてきた。下手に力のある父を持つが故に表立った嘲笑の的にこそなりはしないが、もし彼女の友人かと尋ねられれば誰もが首を横に振ることだろう。
 ジェレミーのアドバイスに従ってアンヌに逢わない日々を過ごした後、今夜ウィリアムはついに想い人と同じ場へ足を踏み入れることを自身に許した。唯一の誤算はヴァネッサがこんな時に限って意気揚々と乗り込んできたことで、噛みつかんばかりの彼女に追い込まれたウィリアムはアンヌを眺めることもままならない。それでもあの手この手でダンスをせがむヴァネッサから逃れ続けてはいたが、ダンスホールへと引きずり出された時には心底肝を冷やしたものだ。今しがたヴァネッサの靴紐が切れたことには天啓に感謝を捧げるほどだったが、絶対に誰とも踊らず自分を待っていてくれと言い残した彼女を本当に待つつもりなど微塵もない。だがダンスの輪を離れていればヴァネッサは病的な前向きさを遺憾なく発揮し、自分を待っていてくれたものと大きく曲解して理解するだろう。それを声を大にして吹聴しながら飽きもせずウィリアムを振り回すことを思うと、次の曲が始まるまでに事態を打開できなければ危険極まりないのは明白だ。
 曲をまたいでもパートナーを変えないというのは即ちそれほど相手に夢中だと示す行為であり、無言のうちに2人はもう心を通わせた関係であると知らしめる古式ゆかしい手段でもある。そんな地獄から逃れる道はただ1つ、別の女性と既に踊ってこの手を塞いでしまうことだ。焦ったウィリアムはすぐ傍を通りがかった者に咄嗟に手を伸ばしたが、それが夢に見るほど恋しい相手だったことは彼女の顔を見るまで気づきもしなかった。しかし彼を救えるのはもはやアンヌしかおらず、彼女がこの申し出を断った瞬間にウィリアムの命運はほぼ決してしまうだろう。それでもこれほど緊迫した状況にありながら、彼はヴァネッサから逃れたいという以上の想いを懇願の言葉に込めずにはいられなかった。

「頼む、どうか嫌とは言わないでくれ」

 こうしている間にもヴァネッサの足音が聞こえてきそうな気がする。周りの者は皆ペアを組み、演奏者たちは楽器を構え始め――そしてウィリアムの耳に響いた答えは。

「私で……よろしければ」
「!」

 おずおずと紡がれたその言葉と、浮かべられた淡く甘い微笑みに彼の心臓はおかしなほど高鳴る。その瞬間に流れ出す音楽はウィリアムが最も得意とするワルツで、アンヌの手を捧げ持った彼は見事なリードでステップを刻んだ。たくさんの人々が踊る広間の中、2人は流れるようなからだ捌きでその合間を次々に縫っていく。まるで2人だけ違うダンスをしているかのように優雅なその様を目にした者たちは、今夜で1番の踊り手たちは彼らだったと口々に言うことだろう。

「伯爵はとてもお上手なんですね。こんな風に踊れるなんて夢みたい……」

 恋い焦がれた相手のそんな囁きに思わずウィリアムの喉が鳴る。

“私こそ夢のようだよ……アンヌ、君と踊れるなんて”

 そう告げられたらどれほど素晴らしいだろう。だがこうしてダンスを共にするだけでも危険であることに変わりはない。アンヌが誰と踊っていたのか知ったブライトン夫人は卒倒するかもしれないし、向こうから恐ろしい形相でこちらを睨んでいるヴァネッサをどうあしらうかも骨が折れそうだ。それでもこの手を離したくはない、その気持ちは何にも増して強い。秘められた想いの欠片を示すことができるのはこの音楽が鳴り響いている間だけだ。

「熟練したパートナーを相手にすればそんな風に感じるものさ。足を踏まないように下ばかり向く必要もない分楽しめる」
「!」

 トライヴ男爵のことと気づいたアンヌがさっと頬を染めるのを見て、ウィリアムは愛しさのあまり無意識に灰緑の目を細める。

「ご覧になっていたのですか」
「偶然ね」

 恥ずかしそうに視線をさまよわせる姿さえ何とも可愛らしく、このまま彼女を独占したいという子供じみた思いが心をよぎった。

「ところで、君の帽子はまた風に乗って旅立ってはいないかな。私のところへやって来てくれたらきちんと捕まえておくつもりだが」
「……!」

 ふわりとその身体を持ち上げるタイミングでそう囁いたウィリアムに、アンヌの目が驚きの色を帯びて瞬きながら彼を見つめる。

「覚えていらっしゃったのですか?」
「ああ、もちろん」

 忘れるはずなどない。その心を一瞬で虜にしてしまった相手のことを、どんな時でも忘れることなど。

「あの時は名前も名乗らず失礼したね。ウィリアム・クリストフェル・アマーストだ」
「こちらこそ。アンヌ・ヴィルジニー・オーブリーです」

 知っている、と口にするのは無粋だろう。あと少しでワルツも終わってしまうというのに、何ヶ月もかけた結果がお互い名前を名乗っただけとは。しかしこれで彼女に自分という存在を知ってもらうことができたと考えれば、密かな崇拝者としての立場からはだいぶ昇格したと言っていいはずだ。この先などないと知っていても、少しでもその視線を投げかけてほしい。そんな切なる願いを捨てることなどもはやできはしないのだから。

「突然の申し出を受けてくれてありがとう。とても楽しかったよ」
「そんな。私こそ素晴らしい時間を過ごさせていただいてどうもありがとうございました」

 音楽が途切れるや否や突進せんとばかりのヴァネッサを考慮して、ウィリアムはアンヌに先んじて心からの謝意を贈る。彼女の返事の優しい響きにその手を1度だけ強く握ると、彼はカラメル色の眸をした想い人に今夜最後の挨拶を告げた。

「お休み、カッシング子爵令嬢」

 その温もりを手離すと同時に爆発しそうな金切声が背後から彼の名前を叫ぶ。辟易しながらも振り向いたウィリアムは混み合う広間でうまくヴァネッサを撒き、首尾よくバルトーズ邸を抜け出した彼は真っ直ぐ自分のタウンハウスへと戻った。
 ヴァネッサのことについては頭が痛くなるばかりで早く忘れてしまいたいものだが、自室で長椅子にもたれたウィリアムはアンヌのことを思い返す。驚きに見開かれたあの目を、さっと朱に染まった頬を、柔らかく弧を描いた唇を……。

「……お休み、アンヌ……」

 この場にその名の持ち主がいないことを酷く寂しく思いながら、彼はしばしの間想い人に触れた掌を掲げてはいつまでも眺めていた。