「アンヌ、最後に踊った方が誰かはあなたももちろん知っているわね?」
「……ルウェリン伯爵です、叔母さま」
「その通りです。なら私が何を言いたいかもきっとわかっていると思うの」
「はい、叔母さま」

 帰りの馬車の中で交わされた叔母と姪の会話は短かった。あまり人を悪し様に言うことのないブライトン夫人だが、帽子を拾ってもらった話をした時からウィリアムにあまりいい感情を抱いていないことはわかっている。特に今夜のように彼が別の女性を連れているような時であれば、わざわざ姪が相手をする必要などないと考えていることは明白だった。

「私はあなたを信じているし、なぜ兄上の元を離れてここへ来たかも十分理解していると思っています。ああいった方に憧れる気持ちもわからなくはないけれど、どうかそれを忘れないで」
「はい、もちろんです」

 だがアンヌが項垂れているのは叔母から釘を刺されたからというわけではない。ブライトン夫人が今夜のパーティーの主催者であるバルトーズ夫妻に場を辞す挨拶をしている間、ウィリアムの隣にいたあの黒髪の女性に廊下へと引き出されていたからだ。

「ねえ、あなた。誰だか知らないけど、どうしてルウェリン伯爵と踊っていたわけ? あの人は私を待っていてくれたのに、あなたのせいで最後のダンスが台無しよ!」

 ヴァネッサはやり場のない怒りを全てぶつけるかのように眉を釣り上げ叱責する。

「どうせあなたも田舎から出てきたんでしょ? 知らないなら教えてあげるけど、彼は私と結婚するのよ。結婚相手を探したいならどうぞ他を当たってちょうだい。ま、例え言い寄っても伯爵があなたみたいなぱっとしない子を相手にすることなんてないでしょうけどね」
「……!」

 そう吐き捨てるとヴァネッサはさっさとその場を離れ、後には涙目のアンヌだけが残された。ブライトン夫人が出てくるまでに何とか目元を拭うことはできたが、はっきりと告げられた中傷の言葉はその心に突き刺さったままでいる。

『彼は私と結婚するのよ』
『伯爵があなたみたいなぱっとしない子を相手にすることなんてないでしょうけどね』

 相手にされないことなどわかっていた。それでも想いを寄せずにはいられなかったアンヌにとって、今夜ウィリアムと踊ったあの数分間は本当に幸せな時間だったのだ。しかし舞い上がった心に突きつけられた現実はかくも残酷で、ヴァネッサの見下すような、勝ち誇ったような青い眸が頭から離れない。立場を弁えろとでも言わんばかりの物言いにはやるせない憤りを感じもしたが、最初から争うつもりなどなかったアンヌはただそれを聞いていることしかできなかった。

「アンヌ、怒っているわけじゃないの。ただ私はあなたが心配で……」

 屋敷に着いても一言も話そうとしないアンヌに困り果てたのか、ブライトン夫人は姪の両手を握ると諭すような声で告げる。

「大丈夫です、叔母さま。今夜は少し……疲れてしまっただけですから」
「そう……? なら今日はもう遅いし、ゆっくり休みましょう。明日は何の予定も入っていないし、久々に家の中で過ごすのもいいわね」

 何とか励まそうとしてくれる叔母に就寝の挨拶をすると、アンヌは部屋で独り静かに涙を流した。
 ウィリアムの方から声をかけてくれたはずだが、ヴァネッサは彼が自分を待っていたと言う。彼女の言葉を信じたくないのはきっと醜いただの嫉妬だ。ウィリアムの伴侶があんな風に他人を傷つけられる女性だと認めたくないだけかもしれない。彼がどこかヴァネッサから離れたがっているように思えたのもそうであってくれたらと願っているだけで、周りはトライヴ男爵が言ったように結婚もそう遠くない風に見えているのだろう。どちらにせよあのダンス自体は単なる気まぐれに過ぎないのだろうし、夢のような時間は2度訪れるものではないことも理解できてはいたが、それでも美しい思い出さえ残してはもらえないと思うと涙があふれて止まらない。
 他人の恋人を想い続けるような不道徳なことなどしたくはなかったが、ひっそりと育んできた恋心を捨てることなど一体どうすればできるだろうか。いっそ故郷へ戻ってしまいたい、傷ついた心にはそんな甘く弱い考えさえ浮かんでくる。だがこんな状態で誰彼構わず婚約を推し進めたとしても、両親や叔母の望んでいるような幸せを掴めるとは思えない。それなら無理をしてこのシーズンで全てを決めようと悪戦苦闘しなくとも、また来年以降心の傷が癒えたら戻ってくることもできるはずだ。秋の終わりには社交の宴も幕を下ろし、王都を居とする貴族以外はそれぞれの領地へと旅立たねばならない。新参者の娘1人、それより少し早く帰ったところで何ら問題はないだろう。
 ――それからのアンヌは極力外出を減らし、何度も彼女のためにパーティーを開いてくれた恩ある相手からの招待にこそ応えはすれ、その姿を見かけることは珍しくなった。前もってウィリアムが訪れると聞いていた場には必ず欠席の返事を送り、訪れた先で偶然顔を合わせねばならなかったとしても、アンヌの側からは会話はおろか目を合わせることさえもはやない。あんなに逢いたかったウィリアムであっても、その傍に必ずヴァネッサの姿がある今となっては胸の傷は癒えるどころか抉られていくばかりだったからだ。
 彼の姿が見えない場であっても短い時間で滞在を切り上げ、深まる秋が盛りの観劇の誘いにも丁寧に断りの手紙を書く。だが社交界に疲れた者の同じような反応を知るブライトン夫人はその真意を知らぬままとは言え、姪が実家へ戻りたいと打ち明けた時にも大して驚くことはなかった。催しを楽しみにしていたかつての様子は今やすっかり鳴りを潜め、結婚を急がねばならない特段の事情もない以上、アンヌがもはやその気でないなら無理をして引き留める必要もない。彼女が本当に幸せになれる相手と出逢えるのは何も今年しかないとは限らないのだ。

「アンヌ、兄上から返事が来ましたよ。来週の初めには馬車をよこしてくださるそうだから、それで帰っていらっしゃいと」

 朝晩はだいぶ冷え込むようになったある日の朝、1通の手紙を届けに来てくれた叔母にアンヌはほっとした笑顔を見せる。色づいた木の葉が全て落ちてしまう時を待たずして、懐かしい思い出でいっぱいの実家へ帰れることは何よりも喜ばしい知らせだった。

「でも最後に私のお友達が開くパーティーへ出席してはもらえないかしら。編み物教室でご一緒している方でね、ご領地へ戻る前に顔なじみの方々を集めてお話ししたいとおっしゃっているの。あなたと一緒に遊びに来てほしいと前々から言われていたのだけど、ずっと都合が合わなくて」

 アンヌは申し訳なさそうにそう告げた叔母へと微笑みながら招待状を受け取る。何から何まで世話を焼いてくれた肉親の頼みならば、パーティーの誘いの1つや2つを断ることなどあり得ない――例えその場にウィリアムとヴァネッサがいるとしても。そう思ったアンヌが開いた書面には郊外にほど近い閑静な邸宅の場所と、主催者である夫妻の名が美しい文字で記されていた。

「日時は今週の終わり、夕方からよ。ボーモント子爵夫人はとても人好きのする方だし、お子さんたちも皆可愛らしいからあなたも楽しめるのではないかしら」

 ウィリアムの無二の友の名をまだ知らなかったアンヌはその言葉に頷くと、嬉しそうな叔母の後についてドレスを選びに自分の部屋を出た。