「ウィル、どうした? 元気がないぞ。恋煩いのしすぎで夜も眠れないんじゃないだろうな、あのルウェリン伯爵ともあろう者が」
よく晴れた秋の午後、ボーモント子爵邸にて。友人夫妻の招きで一緒に茶を飲みながら、ウィリアムはジェレミーの軽口に心ここに在らずといった返事を返した。
「席を外した方がよさそうね。ジェレミー、私は子供たちと庭にいるわ」
その様子を見たエミリアは夫と軽いキスを交わすと部屋を出て行く。名残惜しそうに閉まった扉をしばし眺めていたジェレミーは、片眉を釣り上げると尋問でもするかのようにウィリアムに向き直った。
「さて、どういうことなのか説明してもらおうか? まさかもうカッシング子爵令嬢には興味がないとでも言うんじゃないだろうな」
「それはあり得ない」
間髪入れずにそう断言し、深く息をついたウィリアムは両手を顔の前で組むと心を決めて口を開く。
「あの日から先、私がアンヌに避けられているという話はしたな。残念ながら私の自意識過剰なわけではなかったよ。ブライトン夫人にも小言の1つは言われていたかもしれないが、もっと直接的な原因があった」
「直接的な原因?」
「ヴァネッサだ」
苦々しい声を聞いたジェレミーは目を見開いてその先を待つ。
「あの日、私が屋敷を出た後でアンヌを直接脅したそうだ。恥知らずにも彼女自身が教えてくれたよ。私はヴァネッサと結婚するのだから近づくな、そして……私がアンヌのような娘を相手にすることなどあり得ないと」
「!」
昨夜顔を出した劇場にヴァネッサも現れたことは半ば予想できていた。ウィリアムの頭は突然姿を見せなくなったアンヌのことでいっぱいとはいえ、バルトーズ家の一件から先付け入る隙を見せなかったからか、焦れてきた最近ではますますヴァネッサの行動はエスカレートしてきている。今までは伯爵令嬢という立場も鑑みて面子を潰すような物言いはしてこなかったウィリアムだが、たまたま隣に居合わせた女性にさえも暴言を吐くようなヴァネッサはとても容認できる範囲を超えていた。願望や妄想をさも事実のように触れ回られるのもこれ以上は見過ごせないし、いつか結婚するとしてもそれは決して彼女とではない。そうはっきり告げる機会を窺っていた矢先、作り物の睫毛を瞬かせて言われた言葉は衝撃的なものだった。
「伯爵、あなたがいつまでも私との関係をはっきりさせてくれないからこうして勘違いする人が寄ってくるのよ。1人1人忠告するのも大変なんですから、いい加減他の人に声をかけるのはやめてくださらない?」
「……忠告?」
微かにその眉が顰められたことにも気づいているのかいないのか、不愉快なのはこちらの方だと言わんばかりにヴァネッサはまくしたてる。
「ええ。カッセルのお嬢さんにオルコット姉妹、ギャザリング家にいた2人……」
羅列される名はこの数ヶ月でウィリアムが短い会話を交わし、ヴァネッサが張り倒さんばかりの勢いで追い払った哀れな被害者たちばかりだ。そして……。
「ああ、いつか私の番を横取りしてあなたとダンスをした子にも言ったかしら」
それを聞いた瞬間、ぞっとするほど冷たい感情がウィリアムの全身を駆け抜ける。
「待ってくれ、君はカッシング子爵令嬢にも何か言ったのか?」
「誰?」
「カッシング子爵令嬢だ。バルトーズ家のパーティーにいた」
あの甘い思い出の日から一転して顔を見ることさえほとんどできなくなってしまったことに、思い当たる明確な理由など1つも見つからなかった。例えブライトン夫人が目の前にいたとしても批難しようのない会話しかしてはいなかったし、少なくともアンヌと踊っていた間に嫌われるようなことをしでかしたつもりもない。過去の在り方を拒まれたのなら反論のしようもないだろうが、そんなことは当然聞き知っていただろうあの時でさえこんな風にウィリアムを嫌悪する雰囲気はなかったはずだ。それでいてこうも避けられるのはなぜなのかと頭を悩ませていたところ、アンヌが帰郷するという噂が聞こえてきたとなればやるせない思いは募る一方だった。
だがもしあの不可解な態度に原因があるとするならば。それも自分ではなく、別の誰かに。
「もちろん言ったわ、伯爵は私と結婚するんだから余計なことはしないでちょうだいって。どちらにせよあなたがあんなお子さまを相手にするはずがないってこともちゃんと教えてあげましてよ」
「……!」
高笑いでも始めそうなヴァネッサに対し、ウィリアムは血の気が引く思いでそれを聞いていた。あのアンヌがそんなことを言われてなお同じ場にいたいと思うはずがない。それが彼女にとってどんなに辛いことだったのかは改めて考えるまでもなくわかる。あの時声をかけて巻き込んでしまったことを心の底から後悔したが、それ以上にヴァネッサに対して沸き上がる怒りが抑えきれそうにない。自分になら何を言われても甘んじて受け流すことはできるが、何よりも大切な想い人を侮辱されることだけは許せなかった。
「エルストン伯爵令嬢、君は私との関係をはっきりさせてほしいと言ったね」
「え? ええ、もちろんですわ」
相手が女性でなかったら拳の1つも見舞っていただろう。だがそうするわけにもいかない以上、感情を押し殺したウィリアムの声は刃物のようにヴァネッサを貫く。
「なら言わせてもらう。2度と私に関わらないでくれ」
「……えっ!?」
「私と関わった誰に対しても金輪際近づいてほしくない。君に忠告する権利なんてものはないんだ。世界の終わる日が来ても、君と結婚することだけはあり得ないのでね」
それを聞いたヴァネッサは唖然として数秒立ち尽くした後、あらゆる罵詈雑言を泣き喚きながらウィリアムに向かって手を上げた。舞台のはねた劇場にはほとんど人も残ってはいなかったが、彼らでさえその声の出処はどこかと振り向かずにはいられない有り様だ。
「私の言葉が理解できる頭が残っていることを心から願おう」
ウィリアムは飛んできた平手を避けながらそう言うと彼女を振り切って屋敷へと戻った。その後のヴァネッサがどうなったかなど知りもしなければ興味もない。いつも邪魔だと馬車に残されたままの侍女にでも連れられて帰ったのだろう――化粧の禿げた顔のまま。
「信じられないな……いや、あのヴァネッサならあり得るか。しかしよく手を出さずに耐えたものだ、もしエミリアが同じことを言われたら私は相手が誰であろうと関係ないぞ」
「私だってできることならそうしたかった。自分にこんなにも自制心があったことは驚くばかりだよ」
かつては彼よりよほど血の気の多かったジェレミーは悔しそうにそう唸るが、ウィリアムは何度目かわからないため息をつきながら頭を抱えて項垂れる。
「どうすればいいんだ……アンヌはもう私の顔も見たくないだろう。まさかこんなことになるなんて」
もっと早くこの問題に片をつけておかねばならなかったのだ。そうしていればアンヌをこんなにも傷つけることはなかったに違いない。だがジェレミーは励ますように友人の肩を叩くと家に呼び出した本題を告げる。
「諦めるのはまだ早いぞ、ウィル。今日君を呼んだのには理由がある。それを聞けば君もまだ望みを繋ごうという気になるはずだ」
「望み……?」
顔を上げたウィリアムに友人は手にしたカードを振りながら言った。
「喜べ、愛しの君はここに来る――叔母上がおまけについてはくるが」