想い人が心を寄せてくれるに至った経緯を知ることはどんな時にも嬉しいものだ。だがそれが自分にとって誤ちにも思えることがきっかけだったという場合、一体どんな顔をしてその場にいるのが最も正しいのだろうか。
 眠れぬ夜を過ごしたアンヌが朝の身仕度を整えた後も、叔母は部屋から出てくることなく静かな時間が過ぎていった。正午を過ぎてもその姿を見せてもらえることはついに叶わず、もう今までのような関係には戻れないという悲しみが彼女の心に暗い影を落とす。しかし今日は来ない方がいいとウィリアムに宛てて使いを出そうかと思っていた矢先、叔母付きの侍女から応接間へ来るよう呼ばれた時はこんな事態など想像していなかった。ブライトン夫人は柔らかな肘掛け椅子に深く腰かけると、アンヌに傍へ来るよう言って再び口を閉ざしてしまった。それからすぐにウィリアムが現れ、俄かに張り詰めた空気の中、叔母の不躾なほどの問いに対して彼がこんな答えを返すとは。
 アンヌが領地に暮らす民と机を並べて長い時間を過ごしたことは、貴族向けの寄宿舎が遠いという以上に父のカッシング子爵が希望した結果だ。小さいが歴史ある地所を受け継いだ老子爵は自らの娘と同じようにその土地を愛し、またそこに住まう民をも愛した。それを理解していたアンヌの母は夫の意見に反対せず、夫妻の1人娘は生粋の貴族にして最も平民に近しい存在として成長した。痩せてはいても牧草はよく育つ土地柄か牧畜に携わる者も多く、アンヌは同窓の友人たちの家へ遊びに行っては新鮮な山羊の乳を味わったものだ。野山を駆けては動物と触れ合う子供時代で豊かな心を育み、父母からは完璧な礼儀作法を教わった彼女の現在は今さら語るまでもない。
 緊張するばかりだった初めてのパーティーではそんな余裕もなかったが、場数を踏むに従ってだんだんと話をする機会にも慣れてきた。そんなある日にアンヌは準男爵家の若者からカッシング子爵領についての話を聞かれ、思い出話を交えながらも領民たちの暮らしを語った。だが一通り話したところで相手を見た彼女は面食らったかのような表情に気づき、彼が知りたかったのは屋敷の中のことであってそれ以外ではないことを知ったのだった。
 それ以来アンヌは自らの経歴が貴族としては異端であることを認め、必要がない限りそれを自分から口にしようとすることはなくなった。そういったものに興味を持たない者が多数派であることは知っていたし、未来の結婚相手たり得る人物に同じような資質を求めるほど愚かでもなかったが、彼女は生まれ育った土地とそこで生きる人々を恥じることなど決してない。カッシング子爵領はこれからもずっと変わらずにアンヌの故郷であり、その人と成りを形作る上で大切な場所であったことは真実なのだから。
 ――だがそれをまさかウィリアムに聞かれていたなどと考えたことは1度もない。ましてやそんな話を耳にして彼女を恋い慕うようになったなど、アンヌ自身もそう簡単には信じることなどできそうになかった。自分でさえもそうなのだから、叔母ともなればなおさらだろう。その証拠にブライトン夫人の両手はいつしか固く握り締められていて、アンヌは叔母がいつ出ていけと叫ぶのかと思うととても気が気ではなかった。

「私は妻にも領地を知ってもらい、できれば愛着を持ってほしいのです。自分たちの暮らしを支えてくれている者たちに少しでも思いを馳せてもらいたい。鍬を持って畑を耕してほしいとまでは望むつもりもありませんが、そんな心を持った女性には長らくお目にかかれませんでした。そう、姪御さんと――アンヌと出逢うまでは1人たりともいなかった」

 しかしウィリアムは柔らかささえ感じるような口調でそう続け、そこで初めてブライトン夫人の傍に控えるアンヌの方を見た。

「彼女のような人は2人といない。そして求めていたのがそういう女性であるとわかっている以上、私にとってアンヌの代わりなど世界のどこにもいないのです」

 微かにグレーの混じった緑の眸に優しく見つめられ、アンヌの心は天にも昇らんばかりの喜びに満たされる。これまでの不安が吹き飛んでしまうほどにウィリアムの存在は心強く、傍にいてくれればそれだけで限りない愛しさが尽きずにあふれ出す。そんな想いを感じてくれたのか、彼は叔母に視線を戻すと真摯な面持ちで言った。

「理解していただけるかはわかりません。ですが信じていただけるまで何度でも言いましょう」

 その時ウィリアムが口にした言葉を、アンヌは生涯忘れることはないだろう。

「私はアンヌを愛しています。誰よりも強く、私の全てを懸けて」

 午後の陽射しが降り注ぐ部屋は暖かく、静けさはその誠実さの余韻をいつまでも孕む。叔母の反応ばかりを窺っていたアンヌの目はいつしかウィリアムだけを映し、その眸いっぱいに幸福な光を輝かせて決断の時を待った。

「お話はよくわかりました、伯爵」

 静寂を破るようにブライトン夫人の声が響く。そして貼り付けたような表情が緩むと同時に、ウィリアムとアンヌは何よりも望んだ答えをその口から聞くことができた。

「あなたはしっかりとアンヌを見てくださっていたのですね。でしたら私から申し上げるべきことはもはや何もございません」

 そう言った夫人は姪を振り向くといつもと同じ微笑みをたたえる。

「おめでとう、アンヌ。得難い方をあなたは自分で見つけることができたのね」
「……!」

 滲んだ涙が零れるまでは自分が気づくよりも早かった。あふれる雫はあっという間に両の頬を熱く濡らし、泣き止むことのないアンヌの背中を叔母と恋人が2人がかりでさする。大切な人々がいがみ合うことなく済んだことへの大きな安堵、叔母への感謝、ウィリアムへの想いが混じり合った涙は彼女の心を押し潰していた苦しさを残らず洗い流し、しゃくりあげながら顔を上げたその目には2人の笑顔が眩く見えた。

「伯爵夫人、ありがとうございます。信頼していただいたご恩を裏切るようなことはいたしません」

 そう言ったウィリアムにどこかほっとした様子のブライトン夫人が頷いて答える。

「2日後の朝にアンヌは王都を離れることになっています。その後は兄から――カッシング子爵から伯爵宛てに手紙が参ることでしょう。しばし姪とはお別れですが、それは辛抱していただかなくてはね」
「もちろんです。これから彼女と過ごせる年月を思えば数ヶ月くらいあっという間ですよ」

 だが彼の返事を聞きながら、アンヌは自分がそんなにも長い別離に耐えられるだろうかと訝しく思った。2人の間を認められるまでは何年逢えずとも待つと思っていたのに、今はほんの短い間でも離れるのは嫌だと我儘なことを考えてしまう。だがそんな思いを明かすことなどもちろんできるわけもなく、そのまま恋人の元へ向かえたらという願いは心の奥底に秘められたままだ。
 その日ウィリアムは夕方まで、翌日は午前中から昼下がりまでアンヌと一緒に過ごしてくれた。そして故郷へと戻る朝がやって来ると、彼は告げた時間よりも早くに現れて彼女との別れをいつまでも惜しむ。

「アンヌ、気をつけて。たくさん手紙を書くよ……だから私のことを忘れないでくれ。どこにいても、いつも君を想っている」

 そして馬車の窓から顔を出したアンヌの頬を引き寄せると、彼はその唇に切ないキスを贈って恋人の旅立ちを見送った。