結婚するということがただ単に人前で永遠の愛を誓い、指輪を交換する儀式を指すだけではないことなどアンヌとて当然理解している。そして身分の違いなく10年の時を過ごした学び舎での長い月日において、恋仲の者たちがお互いの想いを打ち明け合う微笑ましい場面は元より、熱く抱擁を交わし唇を重ねている様子を目にしたことも1度や2度はあったものだ。そんな状況であったが故に、彼女は自然とその先に訪れるであろうより深い触れ合いについても知っていた。
 貴族の結婚というものが跡継ぎを残すこともその目的の1つになっている以上、想い想われる相手と婚約したアンヌがいつかその時を迎えることは必然だ。彼女よりもずっと年長のウィリアムは噂の数だけ経験もあるのだろうし、不安に揺れる若い娘の相手にこれ以上理想的な人物もいないだろう。未知の世界への扉を開いてくれるのが彼であるならば、それは素晴らしい思い出として心に残るだろうことにアンヌは異論を挟まない。
 それを嫌だと思う気持ちがあるというわけではないのだが、何の戸惑いもないかと言うと決してそうではないのが嘘偽りない答えだろう。願わくば、その日は今日や明日ではなくもう少しだけ先のことであってほしい。だがそれでは彼を待たせ過ぎてしまうことになりはしないだろうか? 遅すぎれば心が離れてしまい、もはや彼女への興味を失ってしまうのでは……? もしも本人がそれを聞いたら笑い出してしまいそうな突飛な悩みも、乏しい知識しかないアンヌにとっては想像するだけで恐ろしい。かと言って全くそんな素振りもなければ寂しいと感じるに違いないのだから、自分は何と我が儘なのだろうと思うとため息は途切れることがなかった。

“ウィリアムさま……”

 使用人にてきぱきと指示を下した彼には王都とはまた違う威厳があり、華のある面ばかりが語られるウィリアムも1人の領主なのだと気づかされる。しかしその直前に交わした彼とのキスがどんなに情熱的だったのかを思い出してしまう度、アンヌは部屋にいくつも置かれたクッションの1つを抱きしめては顔を埋めずにいられなかった。強く抱き寄せられ、重なった唇の内側を熱い舌先が掠めていった時、つい身体が強張ってしまったことには恐らく気づかれていただろう。それでいて彼女を何より困惑させたことと言えば、口づけを終えたウィリアムの眸に微かな欲望の光が瞬いていたことではなく、そんなキスに快さを感じてしまった自分自身の反応だった。
 別離の辛さに涙しながら幾晩もの夜を明かした身にとって、誰より愛しい恋人の傍にいたいという想いは何にも勝る。物分かりのいい父母を持つとはいえ、婚約者に逢いに行きたいと告げた時にはさすがに反対されはしたが、この結果は説得を諦め匙を投げさせるまで懇願し続けたアンヌの粘り勝ちだ。だがそれは決して彼をベッドに忍ばせるためではないというメッセージは侍女の存在が明らかにしている。前日から体調を崩して馬車に残ってさえいなければ、アンヌと一緒に玄関ホールにいたはずの彼女もウィリアムが主人に贈った熱烈な歓迎を目にしていたことだろう。

“でもマリーがいたらきっとあんなことはしてくれなかったかもしれない……”

 幼い頃から共に育った友人とも呼べる侍女だというのに、その時ばかりは傍にいなかったことをありがたいとさえ思ってしまった浅ましい心をアンヌは嘆いた。これまでは家族や友人が何よりも大事だと思って生きてきたはずなのに、恋とは何と人の心を変えてしまうものなのだろう。彼女の胸を占めているのは今や愛しいウィリアムの笑顔ばかりで、家を飛び出すことさえ厭わないほど彼への想いは深く強い。そんなウィリアムの屋敷に自分がいるというだけで動悸が収まりそうもないのに、これから毎日のようにあんな口づけを受けるかもしれないとすれば自分は一体どうなってしまうのだろうか……?

「あり合わせのもので申し訳ないが好きなだけ食べてくれ。我が家の料理人は昔王都で店を出していたから味だけは悪くないはずだ」

 その晩は侍女のマリー、御者のエドガーもウィリアムの計らいによってアンヌたちと同じ食卓を囲んだ。特産の新鮮な野菜や魚に飽きず舌鼓を打ちながら、この地の特色を語る恋人にアンヌは人知れず酔いしれる。彼が受け継いだその領地を誇りに思い、そこへ自分を受け入れたいと願っていることを伝えてくれるまなざしは温かく、彼が小さな頃から親しんできたこの地の歴史を知りたいと思わずにはいられない。出て来る時には雪が積もりつつあったアンヌ自身の故郷の他に、まだ湖も凍らぬままのルウェリン伯爵領ももうすぐ彼女の大切な場所になるのだ。ウィリアムの伴侶としてこれから先の時間を過ごすことになるこの土地は、最初で最後の新天地として窓の向こうにどこまでも続いている。
 彼のことをもっと知りたい。どんな子供時代を過ごし、どんな遊びを好み、どんな風にその心を育んできたのか。この滞在はそれらを知るための手がかりにあふれているはずだ。ウィリアムが長い年月をかけて築いてきた領民たちとの深い信頼と絆、その中に受け入れてもらうために必要なことを見出したい。いつかアンヌを選んでよかったと彼が思ってくれる日が来てほしい……そんな願いは胸が鼓動を1つ打つ毎に大きくなっていくばかりなのだから。

「長旅で3人共疲れているだろう。客室の準備はできているはずだが、何か足りないものがあったら遠慮なく言ってくれ。机の上のベルを鳴らせばすぐに誰かが来てくれる」

 そう説明を加えてくれたウィリアムに対し、賓客扱いに感動する従者とアンヌは何度も丁寧な礼を述べた。御者は自らに与えられた部屋へと入り、侍女のマリーはいざ仕事とばかりに主人の身支度の用意をしようとしたが、まだ本調子ではない彼女を心配したアンヌは無理をせず今夜は眠るよう告げる。しばしの押し問答を経た後で頭を下げたマリーがすぐ隣の部屋の戸を閉めると、明るい灯火が輝く廊下にはウィリアムとアンヌの2人だけが残った。

“……?”

 どちらからともなく目を合わせはしたが、お互いに言葉を紡ぐことはない。何も言わずにこちらを見つめる彼の眸はオレンジ色の光を受けてほのかに揺らめき、昼間の口づけを思い出した彼女は途端に体温が上がったような錯覚を覚える。
 ウィリアムはアンヌが生まれるよりも前からそういったキスをしていたはずで、今さらそんなことに大きな意味を込めているわけではないのかもしれない。だが彼にとっては至極普通で当然のように思われることも、全てが初めてのアンヌには常に不安と隣り合わせの冒険だ。扉の向こうには侍女がいてまさか何かあるとも思えないが、もしウィリアムに親密な時間を過ごしたいと望まれたら自分はそれを拒めるだろうか?

「!」

 だがふいに伸ばされた指先がアンヌの真っ赤な頬に触れた時、あからさまに跳ねたその肩をウィリアムが見ていなかったことはあり得ない。彼はどこか寂しそうにも見える苦笑を浮かべて彼女の柔らかい頬を撫でると、その目を閉じてアンヌの唇に自身のそれを一瞬重ねた。

「……さあ君もゆっくりお休み、アンヌ。明日は一緒に朝食を摂ろう」

 密かな期待と予想とは裏腹にそのキスは触れるだけのものだったが、ウィリアムは優しく微笑んでそう言うと静かにその場を離れていった。