例え恋人の侍女がこちらの様子を必死で窺っていなかったとしても、あんな風に身構えられてしまえばとても手など出せはしない。思いがけない再会を喜ぶあまりに思わず深いキスをしてしまった時も、ウィリアムにとってアンヌが驚いていたことくらいは目を開かずともすぐにわかった。だが抵抗されないのをいいことに自ら口づけを止めることもできず、理性が途切れる寸前まで続けてしまった自分の意志の弱さにはほとほと呆れるばかりだ。僅かに乱れた吐息にさえも彼の身体は反応し、あと少し解放するのが遅かったならば良からぬことを実行に移してしまいかねなかった。
 こうして自室に戻った後でも、ウィリアムは囚われた獣よろしく部屋の中をいつまでもぐるぐると歩き回ってしまう。これも男の性とはいえ、とても口には出せない想像はいくらでも尽きずに浮かんでくるものだ。もちろんいつかはアンヌに自分の全てを受け入れてもらいたいと思うものの、盛りのついた猫のようにアンヌの後ろを追いかけ回すつもりもない。彼女を待ちたいと思う気持ちはウィリアムの中にも確かに存在しているというのに、現実はそんな淡い理想を打ち砕くほどに鮮烈でつい自信を失ってしまいそうになる。

“何をやっているんだ、私は……”

 こんな情けない相談事など誰にも持ちかけられない以上、この何ともこそばゆい困った感情は自分独りの胸に留めておくしかない。それでも顔を合わせた瞬間に見せてくれた本当に嬉しそうなアンヌの笑顔は、彼女からの手紙を糧として過ごしてきたウィリアムをあっという間に癒してくれた。姿を見る度、声を聞く度、アンヌへ寄せる彼の想いは一層強く、深くなる。それだけに滞在を楽しんでもらいたいという思いもまたその本心であることに変わりはなかった。
 真剣に領地の話を聞いてくれたアンヌにはつい饒舌になってしまったが、時間が許せば冬の祭りを一緒に見に行くのもいいだろう。じきに伯爵夫人としてウィリアムと共に治めることになるこの土地を、そこで生きる人々の暮らしを、ぜひともその目で確かめてほしい。アンヌならば昔から伝わる素朴な伝統にもきっと興味を抱いてくれることだろう。
 明日は午前中こそ新しい堆肥についての報告を受ける予定があったが、幸い午後には何らしなければいけないようなこともない。旅の疲れが残っていなければさっそく市場を見に行こう。祝い事のための大きな野菜が所狭しと並ぶ中、スパイスの効いたホットワインを片手に歩くのはこの時期の楽しみの1つなのだから。

「待たせたね、アンヌ。出かける準備はできたかい?」
「はい、ウィリアムさま」

 カッシング子爵領の名産品である毛織の服を身に纏い、ケープとマフをつけたアンヌが微笑みながら返事を告げる。正午を少し回って屋敷を出発した2人とお目付役たる侍女のマリーは、市場に併設された簡易的な食堂でその日の昼食を摂ることにした。馬車を降りればそこにはたくさんのテントがずらりと立ち並び、店々を回る人々の会話が活気ある賑わいを作り出している。1日かけても全ての店を見るのは不可能なほどの市を見て、アンヌとその侍女が目を丸くしていることをウィリアムは内心誇りに思った。

「さあ、行こうか。ずいぶんと食べ物が恋しくなってきた時間帯だ」

 農業にはあまり適さないアンヌの故郷では野菜を保存する技術が発達したが、比較的温暖なこの地方では1年中大概のものは揃えられる。改良を重ねて甘さを増した林檎を店主の厚意で差し出され、店先でそれを齧ったアンヌの表情にはウィリアムも思わず笑みを浮かべた。時には新たな品種の成長具合についてついつい話し込んでしまうこともあったが、愛しい恋人は彼を急かすでもなく嬉しそうに眺めながら待っていてくれる。ずっと夢に思い描いていたのはこんな生活だったと実感しながら、ウィリアムはそれを現実のものとしてくれる相手とめぐり逢えた幸福に内心で感謝の祈りを捧げた。
 食材自体の味と新鮮さで十分空腹は満たせるだろうが、市場の戦利品をその場で調理してくれる食堂はいつも時間を問わずに人気がある。ちょうど3人分の席が空いたところへアンヌとマリーを座らせると、ウィリアムはいくつかの袋を差し出しながら料金を支払って注文を済ませた。食堂を切り盛りしている年配の女性たちは彼を生まれた時から見知っており、その婚約者として可愛らしい令嬢が連れ立って来たと聞くや否や、出てくるはずの皿数よりもだいぶ多い料理が振る舞われる。

「美味しい……!」

 湯気を立てる出来立ての料理をアンヌが口に運ぶ度、彼女は慎ましくもそう言わずにはいられないといった体で賛辞の声を上げていた。アンヌは食事が置かれたそのテーブルに布の1枚さえも敷かれていないことや、腰かけている椅子がまだ表皮も落とし切っていないような丸太でできているということ、またすぐ隣に農民たちが同席していることなどについては全く気にしている様子がない。今まで彼が付き合った女性たちは1人残らずこんな扱いを拒んだだろうが、同じ価値観を共有できる相手とめぐり逢えたことは本当に奇跡のようだ。
 3人は郷土料理を心ゆくまで楽しむと、新年の祭事に使うための道具をいくつか買って屋敷へと帰った。馬車の中でも話は尽きず、恋人の表情は些細なことにも万華鏡のようにくるくると変わる。いつまでもそれを見つめていたいと思うウィリアムの目は優しく細められ、無意識に愛しいアンヌに向かって手を伸ばしてしまいそうになり――すっかり健康を取り戻した侍女の視線に気づいて彼はぎこちなく窓の外を見やった。
 もうそう若い歳でもないというのに、こんな有り様では20歳にも満たない無謀な若者と何ら変わらない。久しぶりに逢えた生身のアンヌは離れていただけに一層魅力的で、それがこんなにも誘惑に満ちているということを実感してしまったウィリアムの危機感は切実だ。彼女のことは本当に誰よりも大切にしたいと思っているし、こうして傍にいてくれるだけでも言葉にならないほどの幸福を感じている。だがもし愛しいアンヌがその部屋の扉を彼のために開いてくれるなら、夢のようなひと時を共有してもいいと示してくれたなら、ウィリアムは迷わず想いの全てをその身で伝えてしまうだろう。
 ここに来てうっかり手を出すようなことなど断じてあってはならないのに、一緒に過ごせる限りある時間は片時も離れていたくはない。肩を並べて散歩などするのもきっと楽しいに違いないが、2人きりになるようなことがあるなら今の自分も信用できない。究極の選択を自身に迫ってろくに眠れずにいながらも、新たに目にする恋人の一面はどうしようもないほどウィリアムを翻弄する。まだ髪も濡れたままの艶めいた姿を、暖炉の前でうたた寝をしている無防備な姿を目にする度、ベッドの上ではどんな表情に変わるのかを想像せずにはいられない。アンヌが向けてくれる無垢な笑顔を失うことなど考えられないのに、男として生まれついた本能は正直に彼女を求めている。
 年の終わりまであと数日となったその夜も、ウィリアムはアンヌの部屋の前で1日の終わりを告げるキスを交わす。

「……お休み、アンヌ」

 そして自分の寝所へ戻った彼は胸をよぎった言葉に肩を落とした。“このまま私の部屋に来ないか?”――それを告げてもいいのは結婚式の後だと何度も言い聞かせているというのに。