アンヌがアマースト家へやって来てから早くも10日近くの時が流れ、残りの滞在も僅かとなればその全ては何よりも貴重なものだ。またしばらく離れ離れで過ごさなければならない時が近づいていることもあるのだろうか、より深い関係への不安が消えたわけではないのに、この地で知った恋人の様々な姿は今までと違った感情をかき立てる。手を繋ぐだけでも微笑みを浮かべずにはいられなかったようなアンヌは今や、マリーの目を忍んで交わす軽い口づけだけでは物足りなさを覚えるようにまでなってしまった。その身を離してももう少し、あと少しだけ傍にいたいという想いは日増しに大きくなるばかりで、ウィリアムが2人の間に引いてくれている一線を超えてしまいたくなるほどだ。
 だが覚悟もないのにそんなことをすれば彼を傷つけてしまうだろう。マリーの面目も丸潰れなのだから両親の叱責は免れない。責任の持てないことを望んでしまうのは自分が子供であるという何よりの証拠で、それならばただこうして頭を悩ませている方がまだ幾分かはましだろうか。もしその先へ踏み出そうと思ったところで自分ができることなどないに等しく、手慣れた彼には物足りなさを感じさせてしまうかもしれないが、それでもウィリアムと愛を交わしたいという思いは心変わりへの恐れからではなくなっていた。
 結婚式が終われば誰にも何も気兼ねすることなどなくなるのだから、逸って全てを台なしにしてしまうのはこれ以上なく愚かなことだ。それでも折に触れて彼が示してくれる思いやりに満ちた愛情に触れる度、アンヌの心はどうしようもないほど深くウィリアムを求めてしまう……。

「おはよう、アンヌ。昨夜はよく眠れたかい?」
「!」

 翌朝朝食を摂ろうと食堂を訪れた彼女はその前でウィリアムと鉢合わせ、絶えず彼とのことを考えていたアンヌは恥ずかしさのあまりぱっと頬を染める。だが挙動不審な彼女を心配したウィリアムはアンヌの額に手を当てると、カラメル色の眸を覗き込むように身を屈めながらこう尋ねた。

「風邪でも引いたかな? 熱はないようだが……聖火祭に行くのは止めて家にいようか」

 今日から新年まで続く行事の初日は聖火祭と呼ばれていて、この期間中絶やさずに燃やし続ける炎を各街の広場で蝋燭に移し、人々はそれを各々の家へと持ち帰るという伝統的な儀式がある。広い王国の中では地域によって多少の違いはあるものの、カッシング子爵領では忘れ去られた古い行事もルウェリン伯爵領にはまだ残っていた。それらを見るという名目の元でウィリアムのところへ行くのを許されたというのに、本当に熱があったとしても部屋で寝ている気になどなれなかっただろう。

「だ、大丈夫です! 昨日は……少し眠るのが遅くなってしまっただけで」
「それならいいが、くれぐれも無理はしないように。ここは君の故郷よりも暖かいとはいえ、それでも冬であることに変わりはないからね」
「はい、ウィリアムさま」

 考えても仕方のないことはひとまず忘れてしまわなければ。そう思ったアンヌは手早く朝の食事を済ませてしまった後、マリーと共に散歩に出たり、両親に宛てて手紙を書いたりしながら穏やかに冬の1日を過ごした。そして陽が暮れる頃にいつもよりも少しだけめかしこんで準備を整えると、彼女は侍女と恋人の3人で馬車に乗り大きな広場へと出発する。

「わあ……!」

 これまでも何度か通ったその大通りはたくさんの人であふれており、金や銀の紐で飾られた並木はまるで違う世界のように美しい。馬車を降りた3人はそこかしこで賑わう屋台を冷やかしつつ、人の流れに従って目当ての広場までの道をゆっくり歩いた。

「誰かと聖火祭に来るのも久しぶりだ。私に跡目を譲って隠居した両親はほとんどここにも戻らないし、それこそ10年以上は独りでこの場を訪れていたのかもしれないな」

 中央で火を起こす儀式が始まったばかりの広場にたどり着くと、ウィリアムはどこか遠くを眺めるような目をして誰にともなくそう呟く。それでもこれまでの人生を共に過ごしたたくさんの女性たちがいたのだから、アンヌのように恋しいあまり逢いに来た相手だっていたはずだ。そんなことを思いながら彼を見上げればその言いたいところに気づいたのか、ウィリアムは彼女に向き合い賑わいの中でもよく響く声で囁くように答えた。

「誰もここには来なかったよ。私の生まれ育った屋敷で夜を明かしたのはアンヌ、君が初めてだ」
「!」

 たくさんの旗やオーナメントで飾りつけられた広場の中央では細い煙がたなびき、しばしの後にそこからは小さな炎の輝きが見え隠れする。周りの人々と一緒になってその光景に歓声を贈りながら、アンヌは言葉にならない嬉しさで胸がいっぱいに満たされていくのを感じていた。
 点いたばかりの種火は枯れ枝や藁に移って大きく燃え上がり、蝋燭立てを手にした彼女も聖火をもらい受ける人の列に並ぶ。生まれ故郷では寒さのあまり早く帰りたいと思うような儀式だったが、ここでは隣に佇む恋人の存在がアンヌを心から温めてくれた。こんな風に2人で歩める未来がもうすぐやって来るのだとすれば、それ以上に望むことなど彼女にはもはや1つもない。
 ようやく聖火を手にした3人は家路につこうとしたものの、道端に落ちていた手袋を拾ったマリーは歓喜する持ち主の長話に捕まり、ウィリアムとアンヌは手を繋いだまま少し離れたところでそれを見守っていた。

「――アンヌ」
「?」

 だがふと名を呼ばれて顔を向けると、通りを眺めていたはずの彼はいつしかこちらを真っ直ぐに見つめている。そのグレーがかった緑の眸の美しさには思わず魅入らずにはいられない。

「今更改めて言うようなことでもないが、私はこれからもこうして君と過ごしたい。来年も、その次の年も、ずっと君と一緒に火が灯される瞬間を見ていたいんだ」

 そしてウィリアムは愛しさに満ちたまなざしで彼女の耳元に囁いた。

「愛しているよ、アンヌ。君と出逢えた私は幸せ者だ」
「……!」

 毎日のように送ってくれた手紙にも同じような言葉は記されていた。しかし彼の声で告げられる想いは何度でも尽きない喜びをかき立て、息もできないほどの愛しさに包まれたアンヌの視界は涙で霞む。

「ウィリアムさま……私、私も」

 そして胸に込み上げる想いのまま、彼女もまたずっと伝えたかった言葉をその唇で紡いだ。

「あなたを愛しています……!」

 それを聞いたウィリアムはこれまでのどんな笑顔よりも嬉しそうに微笑むと、今にも泣き出しそうな恋人の目元に唇を押し当てて手を握りながら静かに告げる。

「アンヌ、もし君が……君がそうしてもいいと思ってくれるなら……」

 続く言葉をアンヌはきっと心のどこかで知っていた。だがそれを思う時にいつも感じていたはずの戸惑いはもはや存在しない。

「……夜に私の部屋を訪ねてほしい。もちろん来なくても構わないし、それで君から心が離れるようなことはあり得ないが」

 申し訳なさそうなマリーが急いでこちらに駆け寄って来るのを眺めながら、アンヌは繋がれた右手から流れ込むウィリアムの緊張を確かに感じていた。

「来てくれたらとても嬉しいよ」

 そう言った彼は何食わぬ顔で戻ってきたマリーを迎えると、2人を連れて大通りを再び馬車の方へと歩き出す。3人は大きな蝋燭に灯された聖火を暖かくその手に抱きながら、丹精込めて作られた料理の待っている領主の屋敷へと帰っていった。