ルウェリン伯爵領だけに今も残る古い祭りの最後の1つ、聖果祭の成り立ちを知れば他所で廃るのも頷ける。それは新年というめでたい時をさらに喜ばしいものとするため、かつては高価で滅多に手に入らない桃を食べるという趣旨の祭りだったからだ。比較的暖かいこの土地でもさすがに真冬に初夏の果物を収穫することは不可能だが、祝い事に使われる古い種類の桃は不思議と冬の盛りに実を結び、木の手入れの知識が受け継がれていたルウェリン伯爵領以外の場所ではそんな祭りの話を聞くことさえもはやできはしないだろう。
聖果祭の日は朝からあらゆる料理を桃の実が飾り、甘いものはデザートに、そうでないものもいろいろな工夫を凝らされてアンヌを楽しませてくれる。元々果物を好む彼女はどんな種類のものも喜んで食べていたが、この日ばかりは昔の風習が廃れてしまったことを惜しく思わずにはいられなかった。
彼女は並べられたたくさんの果実を心ゆくまで味わった後、仕事を再開したウィリアムの邪魔にならないようマリーと庭へ散歩に出る。門の内側を歩くだけでもかなりの運動になるほど伯爵家の敷地は広いのだが、屋敷から遠く離れた一角で甘い香りの漂う場所を通りがかった時、2人は疲れも忘れて引き寄せられるように1本の木の前で足を止めた。
「アンヌさま、これ……!」
息を呑んだマリーが指差す先には特徴のある桃の実が生っている。それが聖果祭用の果実であることに気づいたアンヌは侍女と顔を見合わせるが、次の瞬間2人が口に出した意見は実に正反対のものだった。
「アンヌさま、1つだけ……」
「そんな! マリー、だめよ。お屋敷に帰ればいくらでも食べられるのにお庭のものを採るなんて」
「でも……」
アンヌとて目の前の柔らかそうな果実に魅力を感じていないわけではない。しかし今朝方ウィリアムからよく食べるものだと感心されてしまったというのに、庭の実にまで手を出したと知られたら一体何と思われるだろう。蜜が弾けるような食感は癖になるという言葉ではとても表しきれないほどだが、この後もまた食べられるとわかっているのにここで恥をかくこともないはずだ。
「マリー、もう戻りましょう。お願いすれば桃のお茶も新しく淹れてもらえるし、厨房の方が選んでくれたものの方がきっとおいしいはずだもの」
それでもなお渋るマリーではあったが、再びその名を呼ばれた侍女は渋々主人の後を着いていった――ずっとそう思っていた。夕食時になっても姿を見せない彼女をアンヌが呼びに行くまでは。
「ウィリアムさま……ウィリアムさま!」
「アンヌ!?」
食堂で待っていてくれたウィリアムのところへ駆け寄るアンヌは真っ青で、その様子を一目見るなり立ち上がった彼は泣き出しそうな恋人を抱き留める。
「ウィリアムさま、マリーが……!」
「アンヌ、落ち着くんだ。一体何があった!?」
「マ、マリーが倒れたまま返事をしないんです。私――」
「わかった、私も行く」
彼女はすぐさま階段を駆け上がって行くウィリアムの背中を追いかけたが、1番上の段にたどり着いた時にはもう彼の姿は侍女の部屋に消えていた。何事かと集まってきた数人の使用人が離れたところで見守る中、マリーの部屋に入ったアンヌはウィリアムが部屋の中を見回していることに気づく。
「ウィリアムさま?」
「アンヌ、君は今日の午後マリーと庭を散歩したと言っていたように思うが――」
そこで言葉を切った彼の視線の先、机の上に広げられたハンカチの上には食べかけの桃の実が置いてある。
「彼女は……もしかして庭の桃を食べたのか?」
そう問われた彼女はマリーがすぐに着いてこなかったことを思い出す。いつもなら主人を先導せんばかりの侍女にもう1度呼びかけねばならなかったこと自体、今から思えば普段と違っていたと気づけるはずなのに。
「ごめんなさい、まさかマリーがあの桃を採っていたなんて」
桃を手に取ったウィリアムの複雑そうな表情を見る限り、その実がもがれず残されていたことにはきっと理由があったのだろう。口にしたのは侍女自身とはいえ、まさか毒でもあるのだろうか? マリーは助かるのだろうか……? いくつもの不安に押し潰されそうなアンヌは震える声で謝罪したが、冷静な恋人は彼女の肩を引き寄せると安心させるようにその髪を撫でる。そしてどう説明しようかとでも言わんばかりに視線をあちこちへと彷徨わせた後、再びアンヌの顔を見たウィリアムは秘密を打ち明けるような声で言った。
「あれは熟しすぎて発酵が始まっている……つまりアルコールと一緒だ。甘い分だけ度数も高いが、むしろ口当たりがいいだけ始末が悪い」
「えっ?」
「彼女はあまり強い方ではなかったんだろうな。この様子なら明日の朝までは目を覚ますこともなさそうだ」
ウィリアムは熟睡しているマリーをベッドに寝かせると使用人たちにいくつかの指示を出し、アンヌと共に廊下に出た後でまだ事情を飲み込みきれない彼女に告げる。
「念のため医者に来てもらうことにしたが、見た限りでは命に関わるような問題はないだろう。二日酔いくらいにはなるだろうが、早めに薬を飲んでおけばだいぶ楽になると思う」
背に添えられた掌は温かく、アンヌを脅かしていた恐れや怯えはあっという間に消えていく。目を覚まさない侍女に取り乱すあまり思わず泣きついてしまったというのに、ウィリアムはそんな彼女に呆れることなくしっかりと受け止め支えてくれた。頼もしい一面を見せてくれた彼にアンヌは謝罪と礼とを繰り返したが、亜麻色の髪をかき上げたウィリアムは騒動の発端に笑いながら彼女を抱きしめる。
「君にとって大事な相手は私にとっても大切なんだ。それにマリーの信頼を得られれば得られるほど君に近づけることも知っているよ」
そしてマリーはやはり酔い潰れて眠っていると医者の口から聞いた後、食堂の椅子に腰を下ろした2人はやっと心穏やかに食事を摂った。予期せぬ出来事に慌てているうちにも時間は刻々と過ぎており、食後の茶を飲み終わる頃にはもう夜更けにもほど近い。いつも就寝の時間を告げているマリーは既に深い眠りの中で、食べかけの桃の発酵具合からは夜明けまで起きることもないと言われている。
図らずもそんな状況になった中、サロンでカップを傾けているのは結婚も間近な恋人同士となれば、お互いを妙に意識してしまうのもきっと無理からぬことだろう。
「さて――」
長らくの沈黙を破って席を立ったのはやはり年長のウィリアムで、毎晩そうしているのと変わらずアンヌへとその手を差し伸べる。どきんと高鳴る鼓動と共に彼女は自分の手を重ね、2人は燭台の灯りも柔らかな階段を心なしかゆっくりと上っていった。マリーの部屋を通り過ぎるとそこにあるのはアンヌの部屋で、いつもならばウィリアムはここで1日の最後を飾るキスを彼女に贈る。そして2人は短い挨拶を交わし、各々の部屋へと帰っていく――だが。
「……ん……」
2つの影が重なり合うと同時に甘い吐息が廊下に零れる。それでも恋人の口づけが深まっていくことをアンヌは決して拒まない……否、拒めない。
「……さい」
「?」
長く続いたキスが終わり、強く抱きしめられた彼女は濡れたままの唇で告げる。
「連れていってください……私を、あなたの部屋に」
「……!」
一世一代の勇気を振り絞って口に出したその言葉に、愛しい恋人の緑の眸は深い喜びの輝きを返した。