女が町を離れれば、恋に狂った男はあらゆる手段を講じて足取りを見つけ出しては追いかけてくる。裕福でもない娘の家族が逃げられる場所には限度があり、相手が時の権力者であるなら安住の地などどこにもなかった。曰くつきの一家を匿う者など探したところでいるはずもなく、生活の糧をも奪われた家族は日が経つ毎に困窮していく。それでもシルヴィオの懇願に折れず敢えて先のない道を選んだのは、ひとえに女の両親が娘を深く愛していたからなのだろう。
 ――だが娘の行方を追ってきたのはデミチェリス家の惣領息子だけではなかったのだ。

「人目につかないような場所にやっとのことで落ち着いても、次の日には家の中や戸の前に必ず手紙が落ちていました」
「手紙?」

 その時のことを思い出したのか、微かに震える手を握って女は頷く。

「私が生きている限りシルヴィオ様は正気に戻られない。私が自ら死を選ばなければ、いずれ死の方が私を迎えに来る……と」

 毎日、何通も、差出人の影すら見えないその手の脅迫は延々と続いた。住まいを変え、名を変えたところでそれが途切れることはなく、単なる恋愛沙汰というだけで終わらせられない相手だったからこそ、彼女の存在を邪魔に思う者はあらゆる方面に無数に潜んでいた。シルヴィオを援助してきた者たちは彼によって得るはずだった利益を手離すことなど考えられず、他に相続の権利を持つ者と繋がっている者たちはここぞとばかりに嫡男の追い落としを目論む。力ある者たちが自らの都合だけを考え長らく続けてきた遊戯、その情勢を瞬く間に変えてしまえる危険な可能性を秘めた駒――それがルーチェ・フェレイラに他ならなかった。

「シルヴィオ様の好意に報いれば私を殺すと書かれたものも、逆にお気持ちを受けないままでいるなら殺すと書かれたものもありました。実際両親も私も致命的ではない程度のものにせよ、故意でなければ不自然すぎる怪我を負うことが何度もありました」
「……それで“依頼”か」

 殺し屋の呟きに女は黙ったまま頷き、その頬には音もなく涙が光る。

「いつかこうなることはわかっていました。でもどうすることもできなかったんです。私たちは疲れ果てて、あの夜も……誰かがいるとわかった時も、もう声を上げる気力さえありませんでした」

 両親の部屋から聞こえた物音、それは長くは続かなかった。そして部屋に押し入った下手人の刃が赤黒く染まっているのを目にした時、娘は全てを瞬時に悟り――自身の命の終わりを覚悟した。

「まさか生きているとは……思いませんでした」

 そう言った女の目は人形にはめ込まれた出来の悪いガラス玉のように、抜け殻と言っても差し支えないほど生気というものがまるでなかった。
 1人の女の殺害依頼、その裏にここまで大きな思惑があったことを知り男は軽く唇を噛む。自分を雇ったのが一体どの手の者であったかはわからないが、娘を生かして依頼者に一泡吹かせようとするのは危険すぎる。彼はあくまで裏の社会に生きる一介の名もなき殺し屋であり、自分とは無縁の世界のあれこれに巻き込まれるのは御免だった。
 これだから柄にもないことなどするものじゃないと男は小さく吐息をつくが、後悔してももう遅い。シルヴィオ・デミチェリスが今なお女を血眼で追っている以上、あの新聞記事を目にしたところで死体を自ら確かめるまでは妄執が解けることはないだろう。既に狂気の域に近くなっているその言動から推察すれば、例え埋葬が済んだ後であっても娘の墓まで暴きかねない。すなわち、飛んでくる火の粉を振り払いたければこの女を早く遠ざけなければ。

「それで、お前はどうするんだ。まだ死にたいか? それとも……」

 ろくに口もつけられないまま既に2本目の煙草は燃え尽きていた。その吸い殻を皿に捨てた後、殺し屋は3本目を手に取り火を点けながらも目の前の娘にもう1度尋ねる。

「……生きるか。少なくとも世間じゃお前はもう死んだということになっているんでね。デミチェリスの嫡男がそれを信じずお前を見つけ出すにはまだ時間がかかる。幸か不幸か今やお前は独りだ。身軽に逃げて生き延びたいのならこれが最後のチャンスだろう。1度死んで蘇る機会はそうそう誰にでもあるものじゃない」

 微かに目を見開いた女が戸惑った様子で殺し屋を見上げる。その眸には一瞬光を取り戻しかけたような輝きが宿ったが、それはすぐに闇に飲まれて跡形もなく消えてしまった。

「生きる……ことなんて、できません」

 消え入りそうな娘の声。男は今度こそ深くまで煙を吸い込み、肺の中の空気を全て吐き出してから相手に静かに問い返す。

「なぜできない?」
「生きるには……生きて、いくには」

 “仕事が要ります”――その答えは単純だったが、同時にそれは何より深い真理を表すものだった。この時代、この国で、生業を好きに選ぶことのできる者など一握りもいない。働くことなく暮らしていける者はそれこそデミチェリスのような資産家だけで、その他の者は搾取されながらも雇われの身に甘んじて働くか、自ら何かを極めることで生計を立てていくしかなかった。そして、女の家は代々前者だった。そういう家系に生を受けた者が他の道に考えが及ばないにしても、それは環境がそうさせてしまうだけであり責めるべきことではないだろう。野に生きる獣よりも家畜の方が常に不幸であるとは限らないのだから。

「手に職でもつければ食うには困らんだろう。お前の歳ならまだ間に合う」
「でも……」
「お前、復讐したいとは思わないのか」
「……?」

 唐突に言われた殺し屋の言葉に女はきょとんと首を傾げる。咥えていた煙草を持ち直し、彼は青味を帯びた灰色の眸を真っ直ぐ娘に据えて続ける。

「お前の人生を破滅させた奴らに復讐したいとは思わないのか? なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないんだと、少しでも考えたことはないのか」
「そ……んな、私」
「金を貯めろ」
「えっ!?」

 女の顎に手をかけた男はその困惑に好ましさを覚えて言った。

「生きて金を貯めろ。そうすればお前の依頼を受けてやる。殺してやるさ、お前の親の仇でも、デミチェリスの息子でも――あるいはお前自身でも、だ」
「!」
「悩め。それは生きている間にしかできない」

 殺すために生きるか、死ぬために生きるか、どちらを選んでも娘は生き残る。だが生き延びることが時として死よりも辛いということはあるだろう。それでもこんな風に全てを諦め無益な終焉を望むのならば、これ以上ないほど悩んだ結果としてそれを掴み取らせてやればいい。復讐するも、自由に生きるももはや彼女の選ぶがままだ。そしてその上で女がまだ自身の終わりを願って止まないと言うならば、正式な手段を経た殺害の依頼を断る理由などどこにもない。

「でも私……他にお金を稼ぐ手段なん、て」

 外の世界を知らなかった女がそう呟くのは当然だろう。彼女が唯一身につけた知識はもう2度と戻れない場所でしか活かせない。だが殺し屋はそんな娘の躊躇を一蹴するように鼻で嗤うと、若い唇を指先でなぞりながら意味深に目を細めて不敵に告げた。

「お前は女だ」
「……え?」
「何がなくとも身1つで金が稼げるように生まれついている――お前は、女だ」

 そして彼女が目を閉じるほんの僅かな暇さえ与えはしないまま、男は薄く冷たい自身の唇を温かく柔らかい女のそれに重ねた。