「――あら、ノアじゃない?」

 雑多な人種の行き交う通りでノアと呼ばれた1人の男――黒い帽子を被いた殺し屋は、夜の歓楽街でも一際目を引く建物の前で足を止めた。白い石造りの門の端には煙管を吹かした女がおり、燃えるような赤毛をますます引き立てる緑のドレスも鮮やかだ。見ただけで高級とわかる布地を惜しみなくたっぷりと使いながらも、その下に隠された見事な肢体を思い描く手がかりにはあふれている。

「ベラ、部屋は空いているか?」
「生憎繁盛してるのよ。でも他ならぬノアの頼みだからね、あたしでよければ相手するけど?」
「ああ、頼む」

 右目の泣き黒子も艶やかな美女はその目を満足そうに細めると、ノアの背中に白い手を添えながら相手を中へと促した。一歩入ればまるで貴族の館と見紛う造りをしたそこは、遠くから微かに何組もの男女の乱れた声が漏れ聞こえてくる。パライソ――“楽園”と名付けられたその娼館はこの辺りで最高級の妓楼であり、殺し屋に先立ち階段を登っていく女はその創設者にして女主人だ。かつて上玉の娼婦として名を知られていたイザベラという名のその女傑は、身体1つでここまでのし上がってきたことも頷ける容姿と豊満な身体、回転の速い頭に加えて何より男を愉しませる技巧に長けていた。

「ずいぶん久しぶりじゃない……」

 通りがかった非番の娼婦に客あしらいと店番を任せると、自身の部屋の戸を閉めたイザベラは男の黒いポンチョを素早く外した。中から現れた麻のシャツ、その上から引き締まったノアの胸板を細い指先が思わせぶりになぞっていく。彼女がまだ一介の街娼であった頃から見知っている殺し屋の男にとって、女はそれなりに長く付き合いを持っている数少ない人間の1人だった。

「でもこうして来てくれたっていうことは“仕事”の方も順調そうね」

 忍び笑いをするイザベラからはこの生業独特の白粉の香りがする。訪れる客がいつも堅気の者だけであるとは限らないからこそ、彼女は社会の表と裏を問わずそれらの情報に通じていたし、この妓楼を自ら構えるにあたってもその人脈を存分に使ったものだ。イザベラは頂点まで昇り詰めるに足る、自身の価値を決して見誤らずに活かすことのできる女だった。

「今夜は泊まっていく? それとも――」
「ベラ」

 扇情的な唇が耳元で囁くように尋ねたその時、ノアはシャツの釦を外そうとする手をすっと躱すとその身を引く。

「ノア?」
「悪いが今夜はお前じゃなく、そこのベッドの方に用がある」

 男は奥の寝台を見やると眉1つ動かさないままそう語り、思わず目を瞬かせた女に追い討ちをかけるような言葉を続けた。

「しばらく寝かせてくれ。金は上乗せして払う」
「ち、ちょっと!」

 憤慨するイザベラを背に、ノアは真っ直ぐ彼女のベッドへ向かうと何の躊躇もせず横になる。

「あんた……ここがどこだかわかって言ってるんでしょうね?」

 彼と何度も肌を合わせた娼婦は呆れたようにそう言ったが、その不平に対して何ら意味のある返事を得ることは叶わなかった。
 固い床での就寝を余儀なくされていた身体に柔らかいベッドは心地良く、ノアは雪崩を打って襲いくる睡魔にすぐにでも完敗を喫するだろう。だが目を閉じた途端に蘇る記憶は彼がまどろむことさえ阻む――つい半刻ほど前に別の女と交わした甘い唇の感触が。

「……!!」

 殺すはずだった女、ルーチェにこの手の経験が全くないことは唇を重ねた瞬間に言わずと知れた。だが戯れ以外の何物でもない口づけに当惑したのは彼女だけではなく、当のノア自身でさえ確かに予想を裏切る驚きを感じていたのだ。それは薬や水を与えるために触れた時とは何もかもがまるで違う、閉じていた目を開かされるような眩い感覚が迸る行為だった。

“何だ? これは……”

 ルーチェの唇に触れた瞬間、それが今までの人生で意味なく繰り返してきたものとは全く違うことに彼は気づいた。それは感覚の僅かな差異に過ぎなかったかもしれないし、そもそもそれを感じたこと自体が既に奇妙なことだったのかもしれない。だが無数の女と交わしてきた口づけが同じように昇華されることはあり得ないということ、それだけはなぜかノアの中に最初から明確な結論として存在していた。
 試しに誘いをかけたところで娘はいかなる反応もせず、殺し屋はそんな様子に乗じて自身の舌を挿し入れる。口内に残る涙の味を確かめたあたりでルーチェはようやく正気に戻るが、包帯だらけの腕ではとても彼を突き放すことなどできはしない。それをいいことに男は行為を自ら止めようという素振りもなく、さらに深くまで女を求めて傷ついた身体をかき抱く。
 1度唇を離せばルーチェの眸は驚きも露わに彼を見返し、息も絶え絶えに涙を滲ませる姿はこよなく男の欲をそそる。その様は常日頃から動じることの少ない殺し屋をも惹きつけてしまうほど、純粋故に抗うことなどできない強烈な誘惑に満ちていた。

「ん……っ!」

 ノアは再び唇を重ね、女の熱い口内を蹂躙する。彼はルーチェの頭を引き寄せながら貪るような口づけを繰り返し、それを拒んでいたはずの細い指先はいつしか男のシャツをしっかりと掴んでいた。軽く力をかけられた娘の背中は無骨な寝台に押し付けられ、殺し屋は跨がるような姿勢でそのまま女の上になる。これから何が始まるかを教え込むようにその耳に舌先を這わせれば、仰け反らされた白い首筋には巻かれた包帯が痛々しい。薬の匂いが染み込んだ布の上を自身の唇で辿りながら、男は破裂しそうな鼓動を刻むルーチェの心臓の上へと片手を重ねた。

「や……!」

 濡れた唇から零れた声では制止するには程遠い。幾度も傷の手当てをした際には何ら感じるものなどなかったというのに、今この時薄布1枚を隔てて触れるその膨らみは柔らかく、ノアとの行為で乱れた呼吸はそれを誇示するように上下させる。高級娼婦を前にした時でさえ気が乗らないこともあるほど淡白な彼が、たったそれだけで経験がないほどの激しい欲望を身の内に感じた。
 女が最も簡単に金を稼ぐ方法、それは古今東西変わらない……だが。

「――っ!」

 ルーチェの着ていたシャツの釦に男がその手をかけた瞬間、彼は冷水でも浴びせられたかのようにふと我に返ると手を引いた。直前に感じた違和感の正体、それは普段脱がせることに慣れた服とは違う合わせの造りに他ならない。眼前で震える娘がその身に纏う衣服は男物であり、それは他の誰でもない殺し屋自身が彼女に着せたものだったのだから。
 ルーチェは男から目を離すことなくよろよろとその身を起こしたが、ノアはたった今自分の身に起きた出来事を認識するだけで精一杯だ。彼が仕事以外で他人の命を手にかけることのないように、身体を金に変える女たちは契約なしにその身を任せない。裏の社会で何より尊重すべき建前を自ら崩しかけたということに、殺し屋は心底戦慄を覚えて自分の行動が信じられなかった。
 部屋には2人の乱れた呼吸だけがしばしの間響いていたが、息が詰まりそうな気まずい沈黙もそう長くは続かない。

「……あなたのおっしゃりたいことはよくわかりました。だから……」

 均衡を破ったのはルーチェだった。色を失った頬の上には幾筋もの涙が止め処なくあふれ、握りしめた手の上に音もなく落ちては血の滲んだ包帯を濡らしていく。

「……一晩だけ時間をください。その後はもう、あなたにご迷惑をかけたりしません」

 その言葉を聞いた瞬間、ノアは何かに弾かれるように部屋を飛び出すと振り返りもせず夜の街に消えた。