「――あんた、ルーチェだね?」
「はい」
「ノアから話は聞いてる。お入りよ」
その日の廓が客に門を開くよりも少し前のこと、イザベラは自身の古着を纏った娘が歩いてくる姿を眺めていた。柄にもない頼み事をされた時には本当にそんな女が現れるのかと疑ったものだが、彼女に触れもせず一晩を明かした男が地味なドレスを1着借りたいと言った時、少なくとも彼には娘がこうしてやって来るという予感がどこかにあったのだろう。
現実と幻の世界を隔てる大きな1枚扉の向こう、一流の屋敷にも劣らぬ館の中では娼婦たちがしばしの休憩を楽しんでいた。カード遊びに熱中する者、更なる化粧に余念のない者、分厚い本を片手にする者、他愛ないおしゃべりに興じる者。ルーチェとそう歳も変わらぬ若い娘から魅せ方を熟知している年増まで、およそ考えつく限りの様々な女たちが客を迎えるまでの僅かな時間を思い思いに過ごしている。
その裏手を女主人の後について通り過ぎたルーチェの目に、娼婦たちは大輪の花を思い起こさせる美しさの化身のように映った。だが無邪気に戯れる彼女たちが各々の部屋へと客を招き入れる頃、身に纏う雰囲気が一変しているだろうということは誰に尋ねずとも想像できる。
「さて……あんた、こうして来たってことはここで働きたいってこと?」
イザベラは娼館の裏手で足を止めると振り向きざまにそう尋ねた。煙管を手にした女主人に淡い緑色の目をした娘は頷く。
「ここで働くってことがどういうことなのか、ちゃんとわかった上で言ってるんだろうね?」
傷だらけの女はその問いに対して再び首を縦に振る。
「あんた、見るからに生娘だけど……本当にその覚悟はあるのかい?」
「はい」
ルーチェの声は静かだったが、その中には心を決めた響きがあった。
イザベラは自身も娼婦としての長い経験があり、この仕事で生きていく上での困難はもちろん、必然的に目にすることになる厄介事をもよく知っている。そして数多の同業者たちの生き様についてもそれらを忘れたことなどない。そんな彼女にとって目の前の娘は若干判断の難しい存在のように思えた。基本的にイザベラは経験豊富な手慣れた娼婦しか雇わない。その中でもとりわけ見目が麗しく、あらゆる教養を身につける意欲があり、洞察力と機知に長け、この生業の生命線とも言える鋭い観察眼を備えたほんの一握りの娼妓だけに、俗世の天女とも呼ばれるパライソの娼婦を名乗ることを許してきたのだ。
従ってルーチェという名のこの女を雇用しなければならない理由などどこにもない。ただ知人の紹介があったところで見込みがなければそれまでのこととは言え、彼女にこの場所を教えたのが他でもないノア・ロメロだということが引っかかる。彼は元来口数少なく、人と深く関わることを好まない性質だ。決して冷淡なわけではないが、かと言って誰にでも情けをかけるような甘さは持っていないのも確かだろう。イザベラが駆け出しの街娼だった頃からずっとそういう男だったノア、そんな彼が初めて見せた意外な一面に少しも興味がないというわけではない。
2人がどういう関係なのかは知らないし、それを敢えて問い質す必要があるとも思わないが、娘の肌を余さず覆い隠す包帯を巻いた人物はノアなのだろう。そしてそれを見る限りルーチェもまた何らかの“訳あり”であることに違いはない。殺し屋がそう旺盛な性欲を持て余す類の男でないにせよ、これまでの人生で見知った娼婦などイザベラ1人だけではないはずだ。普通なら門前払いされて然るべきこの妓楼の格も当然承知しているのだろうが、それも含めてこの娘をここへ導いた彼の意図とは一体何なのだろうか。
“……全く、大した素質の持ち主をあたしに送り込んでくれるじゃないか……”
女主人はルーチェが服の下にどんな身体を持っているのかを一目で見抜き、まだ血の気がいいとは言えない顔が怪我さえ治れば可憐な美しさを取り戻すこと、そして慎重に返される彼女の答えから頭が回ることもわかっていた。しかしそれにノアの紹介を加えてもなおイザベラが躊躇する理由、それはルーチェが処女であることだ。
一見煌びやかなパライソの娼婦でさえ、ここで客を取れるようになるまでに経験してきた苦労など数え切れないほどある。この世界で最も大事なことは何も見た目や才能だけではない。どんなことも耐えて乗り越えてみせるという覚悟、自分を見失わない芯の強さ、そして誇り高く迷うことのない精神。それらがなければ名うての娼妓もあっという間に淘汰される、それが高級娼婦の世界なのだ。例え今ルーチェがそれを持っていたとしても否応無しに純潔を捨て去り、幾人もの男がその身を通り過ぎても果たして同じ返事ができるだろうか?
娼館の女主人として実らない娼婦に投資したくはないという以上に、この世界に適応できず堕ちてしまう女を引き入れることをイザベラは嫌う。だからこそ、彼女ははっきりとした言葉を選んでルーチェを試すことにした。
「それならわかってるだろうけど、娼婦として生きていくってことは男を悦ばせて生きていくってことだよ。手や口だけじゃない、あんたの身体のあらゆるところを、前も後ろも全てを相手の好きなようにされるってことだ。時には可愛い顔にも目をくれないままスカートの下だけに手を伸ばす客もいるし、場合によっちゃ1度に複数の客と寝なきゃいけないことだってある。あんたの反応が期待外れなら客は2度と戻ってこないけど、かといって毎回同じじゃ1週間もせず飽きられて終わりさ。ただ服を脱いでベッドの上で目を閉じてりゃいいってわけじゃない」
そうしようと思えばこれよりもっと明け透けなことも言えただろう。だがこの娘ならばきっと言わんとする本質を掴むことができるはず……イザベラはそんな己の直感に従い覚悟を問うための言葉を続ける。
「この仕事が愉しいと思えるようになるには、それこそ死ぬまでにそう感じられたら早いくらいだ。それにあたしの要求は厳しい。1人1人の仕事ぶりにこの娼館の評判がかかってるんだからね。金を積んだ時間分だけ誰にも等しく夢を見せてやる、そのためにどれだけの努力が必要なのかは今更一々説明しない。はっきり言って辛いよ、ただ何となく日銭を稼げれば満足なら他を当たった方がいい。それでも――」
手にした煙管をルーチェに向けながら褐色の眸の女は尋ねた。
「できるのかい、あんたに?」
女主人の言葉を聞いている間、緑の目が微かに揺れたのは事実だった。だがその眸に宿った強い光が消えはしなかったこともまた真実だ。失うものなど何もない。これ以上堕ちることなど不可能だ。全てを奪われたルーチェに唯一残された道があるとすれば、それは暗い地の底から天に向かって這い上がっていくことだけだった。逆境の中でも生きるということを自ら選んだその時から、彼女が胸に抱く答えはたった1つしか存在しない。
「やります」
はっきりと告げられたその返事を聞いて女主人の紅い唇が弧を描く。できる、できないではなく“やる”――そう答えられる者に外れはいない。久方ぶりに娼婦の作法を1から仕込む価値のある相手が現れたことに、イザベラの心は早くも育て上げたい理想の姿を思い描く。
「――ならついておいで。その怪我が治るまでに覚えなきゃいけないことは山のようにあるんだからね」