ルーチェが元来努力家であることは娼館でも大いに役立った。教えたことをすぐに吸収していくその成長ぶりは目覚ましく、イザベラは期待を上回る愛弟子にさらに知識を与えていく。このままいけば店に出せる日も近いと彼女の口から言われた時、ルーチェが不意に浮かべた涙は安堵から来るものだっただろうか。
 次々に教養を身につけていく娘はそれでいて決して奢ることなく、自分が客の前にも出られない見習いであることを弁えている。それ故に生傷が癒える頃には周りともすっかり打ち解けており、面倒見の良い娼婦たちは初心な新入りを気にかけてくれていた。

「ちょっと、いきなりこの子にそんなこと教えて一体どうするって言うの?」
「でもこの小技のおかげで私は5年間フリオを逃がしてないんだから。知ってたって損はないじゃない」
「ねえ、それよりあっちの方をルーチェにも聞かせてあげましょうよ。去年の夏にリタのところに来たあの背の高い人の話」
「パウラ、あんたも相当ね!」

 既に数ヶ月という長い時間を娼館で過ごした身となれば、経験がなくとも会話の内容をある程度推測することはできる。しかし何もかも承知で自ら妓楼の門を叩きに来たとは言え、初日の夜はもちろん横になっても眠ることなどできなかった。

“……!”

 どこかから木霊のように響いてくるいくつもの囁きや物音は、それが何かを知っていたなら興奮の種にもなっただろう。はっきりと聞きとれるわけではないが、だからこそ無性に気にかかる。それらの部屋で何が起きているのかは全く見当もつかないにせよ、意識しないようにすればするほどより一層耳が冴えてしまったものだ。
 だがそれから幾月もの時が流れ、娼婦の1人となる日が近づいていても、果たしてきちんと仕事ができるのかルーチェには全く自信がない。未だ見習いに過ぎないことはともかく、娼妓たちは誰もが肉感的な魅力を余すところなく振りまいており、何よりもその身に纏う色香が決定的に異なっている。

「女はね、男に抱かれて女になるの。そんな心配そうな顔しなくたって、あなたにももうすぐその日が来るから」

 鏡越しに紅を引きながら笑った娼婦の肌は瑞々しく、自分に自信がある者だけが持つ余裕の雰囲気が漂っていた。夜の闇でこそ最も輝く宿命を帯びた職とは言え、彼女たちは自身を卑下することなく胸を張って仕事に就いている。下賤な女と蔑まれ、口汚く罵られた屈辱をも糧に、着々と培ってきた心の強さがそれを可能にしているのだ。
 そんな娼妓たちの目標とでも言うべき唯一無二の成功者、イザベラの娼館に籍を置くという立場はもちろん名誉なことだった。所詮身体を売る仕事ならば高く買われた方がいい、その意欲を価値へと変えられる者だけが女主人の目に適うのだから。

「ベラの言う通りあんたはいずれ売れっ妓になるよ。あたしの常連は譲らないけど、そうでなければ1度くらいは回してあげてもいいかもね」

 長い巻髪の手入れをしながら若い娼婦がルーチェに言うと、それを聞きつけた他の娼妓が訳知り顔で口を挟む。

「あらエレナ、ずいぶん太っ腹なこと」
「その分ルーチェ待ちのお大臣の中から気の短いのを何人かいただこうって?」
「ご名答!」

 そんな風に冷やかしてもらえるだけでもありがたいのかもしれないが、実践が欠落している新入りはとても笑うに笑えない。
 上流階級の常識以上を頭に入れてしまうまで、そちらの話を一切しないとイザベラは最初に言っていた。ルーチェがそうではないにせよ、先に寝ることを覚えてしまえば学ぶ気を失う者もいる。女主人が逸材をみすみす3流に仕立てるわけもなく、思わせぶりな娼婦たちの話を想像で補うことは難しい。
 ――だからこそ娼館の本来の役割に関してついに彼女が触れた時、ルーチェは自分の“その時”が近いと問わずともはっきりと感じたのだ。

「……ってこと。まあ口で説明するのも難しいのよ。こればっかりは実際やってみるのが1番手っ取り早いからね」

 それから更に数日後。そういった趣味の客に応じて設けた壁の覗き穴、そこから同僚の仕事を垣間見せたイザベラは部屋に戻るとそう言った。男と女の身体の違い、交わりの始まりから終わりまで。どんな時、どうすれば男は快感を得ることができるのか。女のどんな反応に男はより深く興奮を煽り立てられるのか――そして彼らは何を求めてこの場所へ姿を見せるのか。俯き加減の娘は今しがたの光景に動揺しながらも、淀みなく語られる女主人の言葉を理解しようと必死だった。

「怖じ気づいたかい?」

 ふっと煙管の煙を吐きつつ赤髪の女が問いかける。ルーチェはすぐさま顔を上げると染まった頬もそのままに、きっぱりとその首を横に振ることで決意の変わらぬ旨を告げた。

「いいえ、私はここで働くと決めたんです。どんなことがあっても逃げ出したりしません」

 向き不向きを選べる余裕があるのは恵まれた少数の者だけだ。もしも今ここで臆すれば、彼女の席など瞬時に埋まってしまう。さりとて初めて知った睦み事の子細に怯んでいないと言ったなら、それは真っ赤な嘘だということくらいはルーチェ自身にもわかっている……。

“あんなものが……本当に入ってしまうの? 身体の中に?”

 実際の行為を目撃し、どんなに詳しい説明を受けたところで、本当に自分にもあんなことが可能なのかと疑問に思わずにはいられない。だが不安げな生娘の考えることなどお見通しなのだろうイザベラは、ここでは無縁の初々しさに苦笑しながら努めて明るく言った。

「ルーチェ、あたしだって何もいきなりあんなことをさせようなんて思っちゃいないよ。あんたは大事な未来の稼ぎ頭だ、よく道理のわかってる昔の馴染みを事始めに呼ぶから安心おし」
「!」

 それを聞いた瞬間にルーチェは我知らず灰青の眸を思い出す。しかし女主人はそんな彼女に気づかないまま微笑んだ。

「こういう遊びが好きなだけにルールはきちんと守る男さ。騎兵隊の下っ端の頃からよく来てくれたもんでね、変なことはしないし手慣れてる。今もちょくちょく顔を出しに来るから、あんたがこの世界に入るにあたってはなかなか悪くない最初の相手になってくれるよ」

 軽く触れられた相手の素性は明らかに殺し屋のものではなく、自身でも理由がわからないまま娘の心が微かに痛む。だが来るのが彼ではないからといってそれが何だと言うのだろう? ノアはルーチェのことなどとうの昔に忘れているかもしれないし、そもそも彼にその気があったと言うなら途中で行為を止めはしない。彼女の様子を窺う謂れなど男には一切ないのだから、それを寂しく思うこと自体が酷くおかしなことなのだ。
 もうすぐルーチェは純潔を失い娼婦の世界で生きていく。それにはもはや黒髪の殺し屋は何ら関わりなど持たない。理由はどうあれ瀕死の彼女を息絶える前に救ってくれた、娘にとっての彼とはただそれだけの人物に過ぎないのだから。

「だからルーチェ、今夜から毎晩必ずこの薬を1錠ずつ飲むんだ。絶対に忘れるんじゃないよ、あんたも誰の種かわからない子供を孕むつもりなんてないだろう?」

 そう言って渡された小さな瓶には薬がいっぱいに詰まっている。それにルーチェが頷くよりなお早く、彼女を見込んだ女主人は緑の双眸を見つめてこう告げた。

「7晩経ったら――見習いは卒業だ。その日をあんたの水揚げにする」