殺し屋という稼業は日毎あくせく働く類のものではない。相手は殺し、自分は生きる。そのためにはこちらも何かと金の要る仕事であるということに間違いはないが、それでも月に数度も人を殺せば後は好きなように生きていける。
 その前日もノア・ロメロは青年実業家の首をダガーで一掻きにしたばかりだった。声も立てずに事切れた相手が潔白だったのかは知らないし、わざわざそれを調べてみるような酔狂さの持ち合わせもない。だが前途有望な命の値段はそれなりに高くついたため、彼が手にする鞄の中には多くの紙幣が入っている。それでも黒い帽子を目深に被り、同じ色のポンチョの裾をはためかせながら夜の街を歩く男に目を留める者などいなかった。
 ノアが黒い服を身につけるのは“手仕事”をたっとぶ流儀故で、必然的にこうむる血痕を目立たせないという理由でしかない。だがいくら水を浴びたところでその服からも、彼自身からも、染み付いた血の臭いが消えることはないのだろう。だからこそ同業者とすれ違う時にはお互いに気づくことも多かったが、この世界にはもう1つはっきりと生業を推し量れる匂いを持つ者たちがいた。

「――ノア!?」

 自身が知る中で最も強くその匂いを纏う女に名を呼ばれ、機械のように歩調を刻む足を止めた男は顔を上げた。夜の灯りの下では目に眩しい赤毛も見事な美しい女、彼女とこうして顔を合わせるのはほとんど1年ぶりだろうか。

「ベラ、久しいな」
「あんた――仕事帰りなの? 悪いんだけど、今ちょっと時間ある?」
「?」

 妓楼の門は万人に開かれていても、中で愉しむ資格のある者は必ずしもそう多くない。出入りの少ない扉の傍へと呼び寄せられた殺し屋は、この娼館を営む女主人の慌てたような、また同時にほっとしたような常とは違う様子を訝しんだ。

「あのね、いきなりで悪いんだけど……1人相手してもらえない?」

 声を潜めて告げられた言葉にノアは小さく息をつく。大方予約客か何かが来られなくなり娼妓に空きが出たのだろう。だがそんなことは頻繁ではないにせよ決して珍しくもないだろうし、わざわざ代わりを頼まねばならないほどのことでもないはずだ。

「ベラ、俺は――」
「わかってるわよ、あんたがしょっちゅう女を必要とする男じゃないってことは。でもこういうのはこの日って決めたら変えない方がいいの、決心が鈍るといけないから」
「決心?」

 場違いにも思えるそんな単語にますます謎は深まっていく。しかしそんな疑問は次の言葉が何もかも全てかき消してしまった。

「前にあんたが紹介してきた子、覚えてる? あの子の水揚げを今夜やるはずだったの。あたしの馴染みの1人が来ることになってたのに、昨日急に隣の戦争に駆り出されていっちゃったって、さっき……」

 ルーチェ・フェレイラ、彼はすぐにその名を思い出した。だが思い出したとは言っても決して忘れていたというわけではない。今日と同じく朧げな月が闇に溶け込んでいたあの夜、血溜まりの中で死にかけていた彼女をノアは助けることにした。目覚めたルーチェは現実を知るなり絶望の淵へと突き落とされ、生きる気力を失ったその目は作り物のように思えたものだ。だがそんな娘の頬を張るより遥かに大きな衝撃を、黒い死神とも呼ばれる男は唇1つで与えてしまった。自らの足で人生を歩むという危うい概念を教えてしまった。それがどんなに過酷なことか、既にそうして長い時を生きた自身はとうに知り抜いているというのに。
 空虚な眸が再び妙なる希望の光を取り戻し、新たな生き方を求めて彼の元を去って行ったその日から、ルーチェのことなど気にならなかったと嘯いたところで意味はない。だが元々イザベラと殺し屋の間には細く長い付き合いしかなく、敢えてこの場に足を運んでみるほどの動機は存在しなかった。
 しかし何よりも男が自身をここから遠ざけたかったその理由、それは気がかりな相手の現状を知ることを彼が恐れていたからだ。自分でもなぜかはわからない。それでも再び娘と顔を合わせてその双眸が曇っていたならば、ノアの心に潜む“何か”は酷く落胆するに違いなかった。
 だからこそ男は努めてこの妓楼に近づくことを避けていたのに――まさか、こんな日に。

「本当はあの子と顔見知りのあんたに頼むのもどうかとは思うけど、今日に限って他は癖のある客ばっかりでね。あの子ずっと部屋で待ってるのよ。ここまで来たら早く経験させてそっちをいろいろと教えていかなきゃいけないのに、水揚げが流れちゃうとこっちも困るの」

 イザベラは心底参ったと言わんばかりにため息をついてはいるものの、こちらを見つめる視線は最初から有無を言わせる気などない。

「ねえ、花代はいらないから。あんたなら無体なこともしないし、紹介した責任取ると思って相手してあげてよ」
「ベラ――」
「ノア、お願い」

 最後に目にしたルーチェの儚くも清らかな姿が思い浮かび、2人が交わした燃え上がるような口づけの感覚が蘇る。あの時は辛うじて過ちを犯す寸前で踏み留まることも叶ったが、今回は――。

「……わかった」

 絞り出すように吐き出された返事は微かな躊躇を孕んでいる。しかし安堵も露わな女主人は笑顔で男の手を引いた。

「よかった! 恩に着るわ。さ、そうと決まれば来てちょうだい」

 天井の高いホールを通り抜け、豪奢な手すりの螺旋階段を上がり、秘めやかな小部屋が立ち並ぶ廊下を2人は足早に進んでいく。本気で踵を返そうと思えばそうできる力がありながら、ノアはその手を振り払うでもなく彼女に先導されるがままだ。

「一応最低限のことだけは教えてあるけど、まだ下手なのは許してあげてよね。あんたはそう我を忘れることもないでしょうから、終わったらどうだったか聞かせてちょうだい。その頃にはあたしも自分の部屋に戻るから」

 そして昔馴染みの娼婦がある部屋の前でその足を止めた時、男はもはや意味のあることなど何も考えられなかった。こんな状況は彼の人生に起こり得ないはずのものだからこそ、今この時自身が取るべき行動など全く思い浮かばない。呆然と佇む殺し屋の双眸は振り向いたイザベラのそれとぶつかり、無関心という鎧で固めた心は激しく揺さぶられる。

「じゃあ、よろしくね」

 女主人はそんな男の返事も待たずに扉を開き、その薄い肩越しには室内の様子がブルーグレーの目に映る。彼の殺風景な住まいとは似ても似つかぬ瀟洒な部屋の中、ベッドの端に腰掛けた娘が弾かれたように立ち上がり――。

「……ノア……!?」

 果たして声になったかならないか、だがその驚きははっきりと彼女の表情の上に現れていた。ほんの一瞬2人の視線が時が止まったかのように交錯する。

“ああ――俺は、この女を”

 もはや殺すことなどできはしない、ノアはその時確かにそう感じた。誰にいくら金を積まれようと、あるいは彼女自身がそれを望もうと、もう2度とルーチェにこの手で刃を突きつけることはできないと。驚きに丸く見開かれていた淡い緑の眸には、心のどこかでそう願っていた煌めきが残っていたからだ。

「さあルーチェ、初仕事だ。がんばりな」

 励ますようにそう言ったイザベラが去り際に微笑んでから戸を閉める。高級娼婦が肩を並べる名高い妓楼のその一角、そこに言葉もなく向かい合って立つのは黒を纏った壮年の殺し屋と未だ男を知らない娼婦。女主人が去って行く足音が館の奥に消えた時、2人の運命を変える一夜は静かにその始まりを告げた。