「ご……ごめんなさい、私……」

 口元を押さえて俯いた女は蚊の鳴くような声でそう呟き、叱責は技巧の拙さ故だと思い込んでいるのは明白だった。まさか拒まれた理由がその逆だなどとは全く思いもしないのだろう。手慣れた歴戦の娼婦とて、こんなにも早く彼を追い詰めることなど滅多にできはしないのに。

「――俺はお前ほど若くないんでな」
「え……?」

 泣いている女を無理やり抱くほど気分の乗らないこともない、そんな尤もらしい建前を言い訳に男は苦い顔でこう続ける。

「そう何度もできるわけじゃない。かと言ってお前に男を教えないまま終わるわけにもいかんだろう」

 “ベラが見込んだだけのことはある”――ノアが取って付けたように告げた一言は素っ気ない物言いではあったが、そこで始めて無垢な娘は彼の真意に思い至ったようだ。ほっと小さく息をついたルーチェの唇は安堵で微かに緩み、これ以上目の前の甘美な誘惑を無視することなどもうできない。

「発表会はもういい。服を脱ぐんだ」
「!」

 手早く自分の服を脱ぎながらノアが簡潔にそう告げると、娘は躊躇を見せつつもドレスの釦を1つずつ外していく。だがその様子を見つめる男の心をもし覗くことができたなら、衝動を抑え込むための努力を要していたのがわかっただろう。彼女の唇と同じ色をした薔薇色のドレスが床に落ち、コルセットが、最後の下着がその身を離れた時にはもはや目を離すことなど叶わない。恥じらい故にその途中で何度も細い手が止まりはしたものの、決意を試すような殺し屋の視線に羞恥心の方が屈したのか、今やルーチェは何も纏わぬ姿で彼の前に佇んでいる。
 さりとてノアがその裸体を目にしたのは何も今日が初めてというわけではない。虫の息だった娘の傷を洗い、その1つ1つに血止めを塗ってやったのが誰かということを鑑みれば、長く考える必要すらなく答えは簡単に導ける。だがその男は彼女が深い眠りから目を覚ますまでの数日間、ただの1度もルーチェを“女”として認識したことなどなかった。口移しに水や薬を与え、治癒に伴う熱に汗ばむその身体を拭いてやった時でさえ、ノアの欲望は全く彼女に反応する気配を見せなかった――それなのに。

「ベッドに上がれ。ここから先は俺がやる」

 その声がどんなに余裕のないものか、抑揚に乏しい彼の話し方からそれを推し量ることは難しい。気づいているのは本人だけだ。他ならぬ殺し屋の男だけが、自身がどれほど追い詰められた状態にあるのかを知っている。
 見事なまでに女らしい身体がそっと寝台の上に乗り、心許なげに座り込んだ娘はちらりとこちらを窺った。およそ娼婦と名乗る女であれば何も言わずとも横たわり、煮るなり焼くなり好きにしろとばかりにその肢体を見せつけることだろう。だがルーチェは純潔の処女であり、こうしてその身を晒すことさえこれが生まれて初めてなはずだ。喜劇のようなその反応も、本人にとっては至って真面目で真剣であることには違いない。

「仰向けに寝ていろ。お前はそうしているだけでいい」

 哀れな女だ――殺し屋はそう思う。これだけの器量があるならば愛されて過ごせる人生もあっただろう。だが彼女は若さと純粋さ、そしてその魅惑的な肉体を金銭に変えて生きていくという道を選んだ……選ばざるを得なかった。そうさせたのはノア自身であり、それを今更敢えて否定もしない。
 とは言え初めて2人が出逢ったあの夜、もしもあのまま見殺しにしていたら。それを今日までの間に考えてみたことは1度や2度ではなかったが、何度初めからやり直したところで答えはいつも同じだった。ルーチェを殺すという選択肢はもはや彼の中に存在しなかった。もしあの日に戻ることができたとしても、ノアは自分が全く同じ結果を導くとわかっているのだから。
 哀れな女だ――男は再びそう思った。彼に命を救われたばかりにこうも身を窶したのだから、そうした相手に恨みを持っても何らおかしなことなどない。それでも彼女は微笑みを浮かべて殺し屋の元を出て行った。彼のおかげで生きていけるのだと、その眸に一抹の希望をたたえて。
 心を動かすものになど何1つ出会えないまま生きてきた、そんな孤独な男の胸にさえも何かをかきたてずにはおかない健気な娘。せめて最初に充てがわれた相手くらいは彼女に優しくしてやりたい、そう柄でもない思いを抱いたところで何ら罪にはならないだろう。
 あのイザベラがここまで手塩にかけつつルーチェを育て上げたのなら、店に出した後は一流の客だけを相手にさせるに違いない。そしてこの娘ならば瞬く間に数多の男を虜にするだろう。これから先、彼女が一体何人の男に抱かれるかはわからない。はっきりしているのはただ1つ、その頃はもはやこんな殺し屋では触れられぬ場所にルーチェがいるということだけだ。
 だが最初の客は1人しかいない。それは何年経っても、例え彼女の記憶の彼方に忘れ去られてしまっても、いつまでも変わることはない――ノア・ロメロがルーチェの身体を開いた最初の男であることは。

「……っ!」

 緊張のあまり動けない女に男の身体が覆い被さる。何も隔てず触れ合う2人の鼓動はますます早くなり、ルーチェの素肌は陽だまりのような果実の香りを纏っていた。それは客の匂いを消すために使われる高価な香水とは真逆のもので、本来は妓楼で感じることなどあり得ない異質なものでしかない。だがそうだからこそ闇の世界に生きてきた殺し屋にとってはより強く、手の届かないものへの憧れにも似た激しい感傷を引き起こすのだ。
 娘はノアにとって決して得ることができない遥かなもの全ての象徴だった。夢や希望、甘く優しい温もり……そんな字面しか知らない概念がもしも命を吹き込まれたのなら、それは寸分違わずルーチェ・フェレイラの姿に変わるに違いない。
 娼館とは幻想の世界に建つ城だ。どんなに望んでも掴むことのできない幻が今はここにある。知り合うことさえなかった2人が一糸纏わず身を寄せ合う。どんな理屈も現実も、この中ではもはや何の意味も持ちはしない。欲したものが手に入るこの場所で何かを求めるなら奪えばいい。その強く純粋な欲望に勝るものなど1つもありはしないのだから。

「ノ、ア……」

 震える吐息に乗せて紡がれるは命を救われた男の名。殺し屋は女を強く抱きしめるとその愛らしい唇をそっと食み、舌を挿れ、軽く吸い、何も知らなかった娘を翻弄する。

“甘い……”

 だが知れば知るほど欲しくなる、それは爽やかで心地の良い甘さだった。男の両手は強張るルーチェの肌を緩やかに滑り始め、後は絶妙な匙加減で秘められた快楽をそこから引き出していくだけだ。柔らかく流れる髪に隠された耳元に口づけを1つ落とし、いつかしたようにそのまま唇で細い首筋を辿っていく。
 かつてここには深い傷があった。命を奪うことだけが目的ではない、相手が徐々に弱って死んでいくのを愉しむためにつけられた傷があった。あれから1年近くの時が過ぎ、その傷痕は綺麗に癒えている。きっと当時の彼女を知っていなければ誰も信じはしないだろう。だがノアは今もまだ覚えている……ルーチェの身体のどの部分が、どれほどの血を流していたのかを。そして知っている者が記憶を手繰りつつ注意深くその目を向けてみれば、凄惨な過去の痕跡を読み取るのはそう難しくもなかったのだ。