ルーチェを客の目に触れさせないのはイザベラの一貫した方針だった。彼女の補佐として受付をしながら顔を売ることもできたはずだが、まだ“商品”ではない見習いにはいつも裏方の仕事を任せていたのだ。それが一体なぜなのか不思議に思ったルーチェが尋ねてみたある日、女主人は褐色の双眸を猫のように細めてこう言った。

「あたしはね、ルーチェ。あんたを最高の娼婦にしてやりたいのさ。秘密は男を引き寄せる……あんたが思うよりも遥かに。あんたのことは折に触れ客に吹聴してるよ、いずれすごいが店に出るって。みんなどんな妓が出てくるのか気を揉みながら待ってるだろうね。でもあんたの名前も顔も、客にはまだまだ知らせてなんかやらないよ。いつかあんたが店に出るその時まで精々がんばって思い描いてるがいいさ。だってあんたは……」

 “絶対に期待を裏切りゃしないんだから”――そう続けられた言葉を思い返すにつけ、眠れぬ夜を過ごしたルーチェはため息をつかずにはいられない。彼女は早く一端の娼妓として娼館に、そしてイザベラに恩を返さなければならない立場なのだ。右も左もわからないまま押しかけてきた娘を拾い上げ、労を惜しまずあらゆる知識を授けてくれた女主人。イザベラが期待をかけてくれていることがわかっているからこそ、早く売り上げを伸ばし役に立つ存在となることで応えたい。だからこそ身体が“馴染む”までは店に出なくても構わないと言われながらも、昨晩とて自ら希望を告げてまで出してもらっていたというのに。

「どうしたの? ルーチェ」
「あ……おはようございます」

 翌朝、彼女が浮かない気分のまま朝食を口に運んでいた時。同じく前夜店に出た娼妓が心配そうに声をかける。

「元気ないわね、変な客でも来た?」
「いえ……その、逆です」
「?」
「……誰も来なかったんです。そういうものでしょうか、初めてお店に出る時は」

 どんな深刻な悩みを打ち明けられるのかと固唾を飲んでいた娼婦は、ルーチェの言葉に呆気に取られて堪えきれずに吹き出した。

「やだルーチェ、そんなこと言ったらあたしだって昨日は誰も来なかったわよ。仕方ないじゃない、そういう日もあるって。昨夜はたまたまダリアの常連が続けて来ちゃったみたいだから賑わってたけどね。ま、あの人はまとめて何人も相手にできちゃうから回転も早いけど」
「まとめて……?」
「ああ、もう少ししたらそのやり方も教わるでしょ……あたしはちょっと苦手だけど。とにかく、ベラ期待の秘蔵っ妓だって初日はそんなもんよ。むしろあんたの部屋にいきなり客が列を成してたらあたしたちだって面子が立たないじゃない」
「そう……ですか」
「そうよ。だからくよくよしないでいつでも次に備えてなくちゃ」

 そう言って笑顔で果物を頬張る娼婦に悲壮な陰はない。だが彼女とてたった1人の身内である不治の病に侵された妹のため、その身1つで治療費を稼ぐためにこの場所へとやって来たのだ。客が来なかったことに落ち込む気持ちはルーチェより強いかもしれないが、すぐに気持ちを切り替え次を見据えてこそ運も巡ってくるのだと、そう語る同僚に駆け出しの娘は尊敬に近い念を抱いた。

「ほら、そんな顔してると来るはずの客も逃げてくわよ。さ、食べて食べて!」

 心が晴れない本当の理由をごまかすように朝食を終えた後、ルーチェはゲームの名手と呼ばれる娼婦とビリヤードに興じて過ごしていた。彼女の常連の中にはベッドで過ごす時間を犠牲にしても、ホールの隣のプレイルームに残りたがる者もいると聞く。彼らは必ずしも肉体的な快楽だけを求めて来るわけではなく、寝室以外でも男を惹きつける技術の妙は言うまでもない。1流の娼婦とはすなわち何事にも1流でいなければ務まらない、そんな真理を突いたイザベラの言葉を教訓のように思い出しながら、娘は完敗を喫して額に浮かんだ汗を拭っていた。
 ――その日の夜は非番だったが、相変わらず店番の手伝いは許されなかった。昨夜よりは客足がゆっくりしている階下の様子を窺いつつ、ルーチェは自分の部屋の椅子の上で流行の小説をめくってみる。だがその内容などとてもではないが頭に入ってこなかった。こうして長い時間を過ごすのは元々得意ではなかったが、“あの時”からはそれが一層顕著になってしまっていたからだ。時間があれば考えてしまう。しばらく前までは彼女を追い回した破滅の元凶たる男を、そして今は……。

“……ノア……”

 早く客を取らねばならない。取らなければ思い出してしまう……2人が1つになっていた時、その声がどんな風にルーチェを呼んだのか。その手がどんな風に彼女に触れたのか。そしてどんな想いがその胸をいっぱいに満たしていたのかということを。
 きっともうノアは自らルーチェの元になど現れることはないだろう。もし次に逢うことがあるとすれば、それは彼に依頼をする時だけだ。誰をも殺めるつもりなどない。だがその時だけは殺し屋の男に依頼人として逢うことができる――ノア・ロメロに再び逢うことが。

“だめ、そんなことを考えていてはいけないのに”

 ぎゅっと目を瞑り、いくら頭を振っても彼の眸の面影は消えない。しかし依頼をするには金がいる。自分の金など一銭も持たない彼女がノアに逢いたいのなら、一刻も早くできるだけ多くの客を取り金を貯めることだ。早く客を取りたいという思いが殺し屋を忘れるためなのか、それとも彼に逢いたいがためなのか考えることは恐かった。だがその2つの理由が同じ感情に根差した願いだということに、こういった経験に乏しいルーチェはまだ気づくことができなかったのだ。

“早く私を選んでくれる人に来てほしい……”

 ――だが彼女の願いとは裏腹に、その後半月の時が流れてもルーチェを指名する男はいなかった。

「そうおろおろするもんじゃないよ。いつ客が来ても笑えるようにしておおき」

 ここまで来るとイザベラの言葉ももはや気休めにさえならない。今のままでは在籍しているだけ娼館の負担にしかなっていない、その事実が緑の眸の娘をこれ以上ないほど焦らせる。見習いだからこそ許されていたことも、店に出ると決まったら別物だ。始めこそ彼女を気の毒がって助言を与えていた娼婦たちも、ルーチェのあまりの落ち込みように最近では声さえかけられない。悠然としているのはイザベラだけだが彼女に泣きつくなど論外で、これではいけないと思えば思うほど出口はますます遠ざかる。これまでの日々を丸ごと自身の負債としている身であれば、ただ単にこの場を出て行くだけでは何の解決にもなりはしない。客を取り、金を稼がない限り何1つ始まりはしないのだ――始めることも、終わらせることも。

「ルーチェ、いいかい?」

 然して思い詰めるばかりのルーチェの部屋を訪れる者が現れたのは、水揚げから優に1ヶ月が過ぎ去ったその日の夜も更けた頃だった。

「は、はい!」
「あんたにお客だ。入れるよ」

 あれだけ待ち望んでいたにもかかわらず、心臓は正直に飛び跳ねる。それでも自ら身を立て恩を返すための機会がついにやって来たのだ。ノアから遠ざけ、そして近づける、見知らぬ新たな客と共に。

「いらしていただきありがとうございます。ルーチェと申します、今夜はよろしくお願いしま――」

 だが扉が閉まると同時に相手を振り向いた彼女は固まった。なぜなら……。

「……酷い顔だな」

 そう言って帽子を取った男は、あの灰青色の目をしていたのだから。