「え……?」
すぐ傍に立っている黒ずくめの男は間違いなくノア・ロメロ本人で、思いがけず現れた殺し屋にルーチェは出鼻を挫かれる。接客の手順も何もかも忘れて立ち尽くす彼女の目の前で、ポンチョを脱いだ黒髪の男は女の頤に指をかけた。
「相手をする気はあるのか? ないなら――」
「!」
はっと我に返ったルーチェは慌ててその首を縦に振る。
「ごめんなさい、大丈夫です」
そう言いながら娘は気づく……この時間ならもう他の娼妓には全て客がついているはずだ。彼が望んでルーチェの元を訪れることなどないのだから、運悪く余りを充てがわれている不本意な状況に変わりはない。もし彼女が拒めば男はすぐにでもこの部屋を出て行ってしまうだろう。彼がルーチェに何ら特筆すべきような感情を持つことなどありはしない、それは2人が出逢ったその瞬間からこれ以上ないほど明確だ――ノアは彼女を殺そうとしていたのだから。
「でも……私でいいんですか」
「構わん」
あっさりと返された言葉の中にも無関心は見え隠れする。彼はルーチェがいいというわけではなく、別に誰であろうと構わないのだ。
“ああ……でも、私は”
ノアにとって自分は所詮それだけの存在だと理解はしていても、ルーチェはそれでも彼に逢いたいと思わずにはいられなかった。どんなに忘れようとしても、ほろ苦い煙草の薫り1つさえ涙が出るほど恋しかった。考えてはいけないと思えば思うほどその想いは果てしなく大きくなり、あと少しで弾けてしまいそうなほど心を満たしていたのだから。
「ルーチェ」
腕を伸ばしたノアに引き寄せられ距離は一息に0となる。見上げた眸には考えを読み取れるようなものはなかったが、思いを巡らせるよりも早く娘の緑の目は閉じられ……。
“ノア、私はそれでもあなたを……”
固く抱き合いキスを交わす2人をもし目にした者がいたならば、彼らはまるで愛し合う恋人同士のように見えただろう。
「…………」
その頃イザベラは娼館の入り口で独りぼんやりと煙管を吹かしていた。今晩店に出ている娼婦には皆客がついていることもあり、待つつもりのない新たな客には断りを入れなければならない。今しがた若い娼婦の元へと通した殺し屋が言い放った言葉、それを複雑な気分で思い出しながら再び煙で肺を満たす。
『今後一切俺以外の客を取らせないでもらいたい』
あの夜、旧知の男が告げた戯言は到底理解などできなかった。彼女が知っている限り、ノアがこの種の冗談を口にしたことなどただの1度もなかったのだ。閨の中でも身体が反応していたところで心は決して熱くならず、かつてはそんな殺し屋を少しばかり本気にさせてみたいと思ったものだが、その発想自体が無駄なことだったと知るまでの時間は短かった。彼は冷血とまでは言わないが、良くも悪くも割り切り過ぎているのだ。
娼婦という難儀な仕事柄、しつこくないのはありがたかった。支払いの方も切りのいい数字を幾分多めに渡してくれる。だが続けて来たかと思えばその次は年をまたぐようなこともあり、いつでも当てにして頼れるような親密な相手というわけではない。それでもイザベラがルーチェの歳の頃から付き合いが続いていたのだから、それでお互いに不都合を感じるようなこともなかったのだろう。
――だからこそ、あんな風に憤らされる日が来るなど誰が想像できただろうか?
「あんた……何言ってんの? できるわけないでしょ、ここは女を売る場所なのよ!?」
そう言って眉を吊り上げる彼女の足元にノアは手持ちの鞄を投げた。
「何よこれ?」
「ここがどこかは承知している。あの女が娼婦であることも」
淡々とした物言いを崩さず男は鞄を指し示す。
「ルーチェが店に出る全ての時間を買い取りたい。そのための金だ。足りなくなる前にまた来る」
「ちょ――」
ぎょっとしたイザベラが中を開けると、そこにはひと月分の花代を上回る札の束を見ることができた。呆気に取られる彼女を余所に殺し屋は部屋を出ようとするも、背中を向けた黒髪の男に女主人は声を上げる。
「あんたね、何のためにこんなことするわけ? あの子を紹介したのはあんたじゃない。あたしはあんたの情婦を育てるために面倒見てきたわけじゃないのよ!」
ノアはその足を止めて振り向くが、灰青色の双眸に変化は全く感じられぬままだ。
「あの子は売れる、賭けてもいい。でももしあんたの癖がついた女になったらどうなるかくらいわかるでしょ? いくら普通のことしかしないからって、万が一ルーチェがあんたに絆されたりしたらこの先やっていけなくなる」
娼婦が客に恋をした時、その未来が破滅に繋がることをイザベラは十分知っている。稀に“真実の愛”を手に入れられる幸運な者も存在するが、たかが1人の客の気紛れで潰されてしまうなど真っ平だ。美しい花を開かせる前に摘み取られるのはもちろんのこと、そのまま打ち捨てられることだけは何としても阻止せねばならない。それはルーチェを愛弟子とも思う女にはある意味で当然の思いだった。
「あたしはルーチェに将来この娼館を継がせてもいいと思ってる。あの子は人をよく見てるし、気も利く上に頭も悪くない。顔は綺麗で人目を引くし、身体の方はあんたも見ての通りさ。そしてちゃんとここで生きていくんだっていう覚悟を決めて働いてる」
「…………」
「ノア、あんたがあの子を連れて来てくれたことには今でも感謝してるわよ。でもそれとこれとは別の話。あの子はもううちの娼婦なの、いろんな男を愉しませなきゃいけないのよ。あんた1人と寝るためだけにルーチェはここにいるわけじゃない。水揚げの相手になったからって変な勘違いされちゃ困るわ」
「なら今ここで俺を叩き出すか、ベラ」
「!」
それは殊更静かな声だったが、本気で言っていることは嫌でもわかる。
「俺は客の権利としてあの女の予約をしたいと言っているだけだ。そのための金もある。それでも俺の要望は聞けんというなら不服だがお前に従うさ。だがその場合はお前と俺との付き合いも今夜限りということになるだろうが」
怯んだイザベラを射竦める視線は刃物のような鋭さを帯び、うかつに身動きできないほどの拘束力を伴っている。もし殺し屋がポンチョの下に吊るされたダガーを取ろうとしたところで、抵抗を試みようとすることなどとてもできはしなかっただろう。
「あの女をどう扱うかはお前次第なのもわかっているつもりだ。金でルーチェを押さえたところで毎晩来られるわけでもない。お前がその金を受け取って、他の男の相手をさせていても俺は文句を言うつもりもない」
「な……」
「だが多少なりとも長い縁があることを考慮するつもりがあるのなら、俺はお前にもそんな手心があると信じるより他にはないんでね」
扉の前に立っている男は見知らぬ人物のようだった。姿形に覚えはあっても彼ならこんなことを言いはしない。まるで恋に狂った青年のように、独占欲にあふれた言葉など。
沈黙の中で今度こそ部屋を出て行こうとしていた殺し屋に、イザベラはほとんど無意識のうちに核心を突く問いを投げかけた。
「ノア、あんた――あの子を愛してるの?」
その眸が驚きに見開かれるのを彼女は初めて目撃した。だが男は皮肉気に口元を歪めるとそのまま娼館を後にした……何も言葉を返すことなく。
「いつまでもこんなこと続けてらんないわよ、ノア……」
夜が更けてなお賑やかな通りに向かって誰にともなく呟きながら、赤毛の女はため息混じりの煙を深く吐き出した。