「あぁ……あ、っ」

 脆く儚い囁きのような喘ぎが熱い吐息に混じる。ノアは既に長い時間をかけながらルーチェの肌をまさぐっていて、身体中を愛撫されている娘は零れる声を抑えられない。彼女も時折その手を伸ばして相手に触れてはみるものの、男の唇がひとたび触れれば自由などどこかへ消えてしまう。
 ルーチェの身体で知らない場所など1つも残ってはいないのに、殺し屋は女の汗ばんだ肌に掌を滑らせ続けていた。触れられる場所の1つ1つが燃え上がってしまうように熱く、高まり続ける快感に娘の眸には涙が滲む。部屋の扉が閉まってから先どれほどの時間が過ぎたのかなど、冷静に考えていられるような状態ではとてもいられなかった。

「ルーチェ」

 項に押し当てられた唇が低く快い響きを奏で、ルーチェはそっと自身の目を閉じると甘美な余韻を反芻する。ひと月前に彼の腕に抱かれ身体を重ねていた時も、艶のある声で名を呼ばれるのはなんと魅力的だったことか。だがそんな響きを聞いたことがあるのはこの世に彼女1人だけだ。そしてノアがもっと早くやって来ようと、あるいは更に遅くやって来ようと、どんなに他の娼婦がいたところでルーチェが選ばれるということも、娘の心の片隅にさえも思い浮かぶようなことはない。

「ん……!」

 貪るように口づけられ、男の指先が探るように滑れば女は切ない喘ぎを上げる。月の満ち欠けが1回りする間誰にも触れられずにいた身体、彼によって目覚めさせられたそれは既に知るその先を求めていた。淡い桃色に色づく胸の頂をそっと甘く噛まれ、癒すようにそこを舐められるだけで歓びに悶えずにはいられない。ぷくりと尖った先を吸われ、柔らかい膨らみを揉みしだかれる毎にルーチェは何度も背を反らす。声にならない言葉が幾つもその心に浮かんでは消え、それでいてノアへの想いだけは危うく告げてしまいそうになる。

“ずっとあなたに逢いたかった……逢いたかったの、ノア”

 ルーチェは想い合える者と出逢えた時に許す全てを彼に捧げていた。名の知れた娼館に在籍している娼婦の1人であろうとも、その経験はたった1人の男と重ねた夜の分しか持たない。それもようやく2回目にしか過ぎず、身体を売る仕事をしているとは言えほとんど素人同然だ。だが娘は既に気づいている……この深い歓びを分かち合える相手は彼しかいないということを。磨耗した彼女の魂を慰められる者がもしいるならば、それはこうして抱き合う殺し屋以外にはあり得ないのだということも。

「ノア……お願い。お願いします、私……!」

 経験の長い娼妓ならばまだその台詞を使いはしない。だがこれ以上焦らされ続けているのは身も心も限界だった。腹部を熱く掠めるノア自身をルーチェの全ては求めている。男がこの部屋を訪れた理由が1夜の快楽だけだとしても、恋しい想いに震える心を誰が止められると言うのだろう? 彼に逢えるのはこれが最後の夜になってしまうかもしれない、その恐れは苦しいほどの切なさと焦燥感とをかき立てる。
 早くノアと1つになりたい。深く満たされ結ばれる歓びをもう1度2人で味わいたい。この場で働き生きていくのなら捨てねばならない感情も、決して口では言えないからこそせめてこの身体で伝えたい――心から愛しているのだと。

「ルーチェ……!」
「――っ!」

 耳元に落ちる甘い口づけ、身の内に感じる激しい熱。望み続けた男の楔がようやくもたらされたその瞬間、息を呑むほど艶を帯びた声が濡れた唇から紡がれる。

「あ……あぁ、あ……ぁ……」

 例え金で買われた身であろうと、彼女の全てを満たしているのは他ならぬ愛しい殺し屋だ。初めて肌を重ねたあの夜から今日この時まで求めていた、再び彼と1つになれる歓びは言葉になりはしない。ゆっくりと抽送を繰り返されれば思わず広い背にしがみつき、しなやかな脚はいつしか相手の逞しい腰へと絡みつく。ノアではない誰かに抱かれるつもりで覚悟を決めてはいたものの、ブルーグレーの眸を目にした瞬間ルーチェは確かに歓喜した。心の中に最後まで残った空虚さをぴたりと埋めてくれる、そんな人物にこの世の誰もがめぐり逢えるとは限らない。愛など知らずに生きてゆけたなら苦しむこともないだろうが、1度でもその輝きに触れたなら忘れることなどもうできない……。

「あ……ぁ、ノア……!」

 こんな感覚が許されているのが不思議なほどの眩い快楽、それが柔らかな渦を巻いている淵へと彼女は緩やかに沈んでいく。愛した男と何をも隔てず繋がっていられる幸福に、目を背けて手を伸ばさずいることなどルーチェにはもはや不可能だ。重なる唇の優しさも、かき抱かれる両腕の力強さも、自身を貫く彼の熱さも、その全てを心に刻みつける。いつか再び無力さの前に挫けそうになる日が来ても、ノアの温もりを思い出すことで自分の支えとできるように。
 たった独りで生きていく辛さを知り抜いていない者ならば、こんなにも孤独な娘の心を揺さぶることなどなかっただろう。こうして抱かれるベッドの隣の小さなチェストの引き出しに、彼女は今でも男の手書きの地図の切れ端をしまってある。もし彼に出逢っていなかったなら、娘は人を愛することも知らずに短い生涯を終えていた。全てを失った絶望の淵から這い上がることなどできなかった。だが長い間悲しみのためだけに頬を濡らしていた涙を、今のルーチェは嬉しい時にも流すことができると知っている。冷たい態度の奥に秘められた情けを知ってしまった今は、彼女を殺していたかもしれない男を娘は恐れない。
 ルーチェは命を奪うことまでを肯定しようとは思わないが、好き好んでそれを身を立てる術として選ぶ者などいないだろう。時折示してくれた優しさが本来の姿だとするならば、一体彼は何度その心を闇に葬ってきただろうか? ノアは自分がどんな行為を経て生きているのかを知っている。目には見えない十字架が日毎その重さを増していくことも、例えそこから逃げ出したところで犯した罪は消えないことも。それらの全てを承知した上でそれでも彼は選んでいる――誰にも頼らず自分の力で生きていくための代償を。
 そんな殺し屋を癒したいなどと分不相応な夢は見ない。だが許されるならばこの時だけでも彼を受け入れていたかった。どんな過去を持っていようと、彼女が愛した相手がノアであることに変わりはないのだから。

「ノア……わた、し……もう……!」

 娼婦にもその職業を務める者にだけしかできない何かがあるはずだ。娘は自ら選んだ生き方で愛する男を満たしたかった。娼妓としてのルーチェ・フェレイラと1人の女としてのルーチェ・フェレイラ、2つの似ていて非なるものの間で彼女の心は揺れながらも、両者はこの時狂おしいほどに同じものを強く求めていた――すなわち、ノアと共に昇り詰めることを。

「――っ!!」

 女のその身の奥深くにまで注ぎ込まれていく彼の熱。別々の場所に散っていた何かが再び1つになるような、尊ささえ感じられるほどの果てしない歓びが駆け巡る。彼女自身の根幹を成している形を持たない何かをも、湧き上がってくる幸福感と愛しさで満たされていくようだ。
 しばらくの間身じろぎさえせず2人は身を寄せ合っていたが、お互いの呼吸も整いきらないままどちらからともなく目を開く。そして男の双眸に同じ感情の微かな煌めきを見たその時、ルーチェの頬を1雫の涙が音もなく滑り落ちていった。