2度目の仕事を終えてから更に2週間ほどが過ぎたその日、朝の食堂は不自然なまでの沈黙に支配されていた。ルーチェは階下へ降りるや否やそのおかしな雰囲気に驚くが、自分に注がれる視線に気づくと言い知れぬ不安に襲われる。だが何を言えばいいのかもわからずに腰を下ろした彼女へと、1人の娼妓がそっと近づいて声を潜めつつ問いかけた。

「ねえ、ルーチェ」
「はい?」
「あなた、昨日も店に出てたわよね?」

 一体何を尋ねられるのかと娘は身構えていたものの、思いがけない単純な問いに疑問はますます大きくなる。

「はい。また誰も来てはくれませんでしたが……」
「――当然じゃない」

 どこかから聞こえたその呟き。びくりと肩を震わせるルーチェに周囲はどこか困惑ぎみで、彼女は不穏な空気の原因が自身にあることを思い知る。

「あの……どうしてですか?」
「……あのね、この前非番だったカタリナが外から帰って来た時……」

 非番の娼婦は許可さえ得れば外出も自由にできるため、気晴らしにカジノや劇場に足を伸ばして楽しむ者もいる。そしてそんな娼妓の1人が話題の出処であることは明らかだった。

「ホールにあなたの画がなかったって。昨日も……」
「!」

 パライソの女はその画がなければ店に出ているとは思われず、非番の娼婦を指名することは客に固く禁じられている。とすると、肖像画のない娘が客から選ばれることはあり得ない。

「ルーチェ、いくらイザベラのお気に入りだからってそういうやり方はよくないよ。自分だけ選り好みしたいってんならここじゃなく他所へ行ってちょうだい」
「ちょっと、言い過ぎだって。まだルーチェが頼んだって決まったわけじゃないでしょ。今更そんなことしたって意味ないって、自分が1番よくわかってるはずだし」

 矢継ぎ早に言葉を浴びせられ、ルーチェは我知らず何かに祈るように強くその両手を握っていた。彼女たち高級娼婦の側にも当然客を選ぶ権利はあるが、それは相手を務めるに適さない者を娼館として受けないためであり、特定の人物に自分を独占させるために使われるものではない。怪訝なまなざしで娘を見ている女たちはそれを疑っている。女主人が彼女の資質を見込んでいるのをいいことに、気の合う少数の客だけを相手にしようとしているのではないかと。

「私、絶対にそんなことはしていません!」

 疑惑の理由を悟ったルーチェははっきりとそれを否定する。例え褥を共にした1人の男を胸の中で想っていても、自分が娼婦であるということを忘れたことなど1度もない。通された客なら誰であろうと分け隔てをせず相手をする。選択肢は彼女のものではなく、客とイザベラのものなのだから。

「何だい、朝から辛気臭いねえ」

 そこへよく通る声が響き渡り、全員が振り向いた先の戸口には赤毛の女が立っていた。

「ベラ、ちょうどよかったわ。店出しの日なのにルーチェの画が出てなかったって話があるんだけど、何か知ってる?」
「画? ……ああ、あれかい」

 “出してないよ”――女主人は外の天気でも話すようにあっさりと娼婦にそう答える。

「ちょっと、それじゃルーチェに客がつかないのは当たり前でしょう!」
「あんなに悩んでたのに可哀想じゃない! どういうことよ、ベラ?」
「……わかった、わかったよ。それじゃ種明かしといこうじゃないか」

 怒りも露わに詰め寄りながら訴える娼婦たちを宥めつつ、イザベラは波打つ髪をかき上げると観念したとばかりに話し始めた。

「ルーチェの画をかけなかったのは事実さ。素人を雇うのは初めてだし、いきなり海千山千の相手をさせるのも酷かと思ってしたことだけど、慎重になりすぎてたかもしれないのはこの際否定しやしないよ」
「ベラ、そうは言っても客が来なくて困ってたんだから取らせてあげりゃよかったじゃない。本人に言わずにそんなことしたって悩むのは当たり前でしょ」
「確かにね。それはあんたたちの言う通りだ」
「それなのに2回続けて同じ客の相手をさせたのはどうしてです?」

 納得いかない表情の娼妓に女主人は驚いてみせ、息詰まる空気を笑い飛ばしながら大げさに肩を竦めて告げる。

「たった2回じゃないか! 娼婦をしてりゃ同じ男と何度も寝ることくらいあるだろうに。怪しんでるなら言うけどね、あたしはその客とはもう10年以上の長い付き合いがあるんだよ。何回相手をしたのかなんていちいち覚えちゃいられないさ」

 それを耳にしたルーチェの胸には鋭い痛みが走ったが、次に続いた言葉の方がより深い傷を娘に刻んだだろう。

「その馴染みをあたしが呼んだのも別に大した意味なんかありゃしない。水揚げの時は変なこともしないし白羽の矢を立ててはみたけどね、2度目はあんまり空くとよくないってだけで別に誰でも構わなかった。たまたま都合よく空いてた男が同じ客だったってだけの話さ。それにもし向こうにも思うところがあるなら3日も開けずに通ってくるだろ、みんなも知っての通り男ってのはそういう生き物なんだからね」

 女主人はその話術を用いて真相を煙に巻いているが、矛盾に気づける者があるとすればそれは唯一ルーチェだけだ。だが水揚げの相手がどこかで別人に変わったことを知っていても、2度目の来訪も特別な意味などなかった事実に思考が止まる。ノアにとって彼女を抱くことなど頼まれごとに過ぎないのだ。もし別の娼婦の相手に呼ばれても同じように振る舞うに違いない……。

「この件はあたしが勝手にしたことでルーチェは何も知らないんだ。あんたたちの待遇が悪いと思わせたならそれは本当に謝るよ。でもみんなよくやってくれてるし、これからもできるだけそれぞれに合ったやり方で働いてほしいと思ってる。だからもしあんたたちに不満があったら直接あたしに言っておくれ。今回のことでこの子を責めるのは申し訳ないけどやめてやって」

 そう言われてなおイザベラに何かを問い質そうとする者はいなかった。彼女がルーチェに目をかけてきたのはこの場の誰もが知っているが、新入りが期待に応えようと重ねた数多の努力は真実で、研鑽の末に開花させた才能が類稀なものだとも認めている。だからこそルーチェが今回の問題に関して何ら知る立場になかったのなら、これ以上彼女に非難の言葉を浴びせるつもりなど誰にもない。イザベラがあるまじき行いを……娼館の掟を曲げかねない行為を奨励するはずがないのだから。
 彼女はパライソのあるじであるという以上に伝説的な娼婦でもあり、それ故にイザベラの口から紡がれる言葉の真偽を疑う者はいない。個性様々な娼妓たちを時には親身に、時には厳しく導く彼女は欠かせない存在だ。いくつもの娼館を渡り歩いてきた経験の長い娼婦ですら、ここより恵まれた環境の場所など恐らく知りはしないだろう。女ばかりの閉ざされた世界によくある諍いなどとも縁遠く、イザベラの元では誰もがそれぞれ自分らしく過ごすことができる。全員をしっかりと掌握している彼女の手腕が振るわれれば、小さな不和の種さえもこうしてどこかへ消えてしまうのだから。

「さあさあ、パンが冷めちゃうよ。まずは腹ごしらえといこうじゃないか、店が始まるまではまだ長いんだから」

 そう言って独り泥を被りながらも疑惑を収めたイザベラは、ルーチェの隣をすれ違いざまに落とした声でこう囁く。

「後であたしのところへおいで」
「……!」

 娘は咄嗟に振り向いたが、燃えるような赤毛も美しい女は既に食堂を出た後だった。