「また来てくれたんですね」

 ノアの顔を目にするなりそう言う娘の声は穏やかだった。だがそれが今の男には何よりも深く心を抉っていく。彼にしてみればとてもではないが冷静でいられるはずがない。これを限りにもう逢えはしないとわかっているならなおさらだ。

「ベラから聞いた。これからは普通の扱いになるそうだな」

 その言葉で次に悲しみの淵へと落とされたのは女だった。それは殺し屋もルーチェの状況を知っていたことに他ならず、ひいてはイザベラが語った話を何よりも強く裏付ける。すなわち、ノアは自らの意志でなく頼まれて来ていたということを。

「はい……だから、もう」

 “もうここへ来る必要はない”――声にならなかった続きはそれぞれ告げるまでもなくわかっていた。娼婦としてそうあるべき理想を満たしていたその回答は、男にとってはこれ以上ないほど明確な決別を意味している。結局のところ2人が導いた結末は何も変わらない。共に過ごすのは今夜が最後と悟るに足る結論だけが、ほんの僅かな会話の中にさえはっきりと浮かび上がっていた。
 もし違う状況で出逢えていたなら愛し合うこともできただろうか? 2人がそれを考えたことなど決して1度や2度ではない。だがもしそうであれば知り合うことさえないまま終わっていただろう。ノアがノアで、ルーチェがルーチェである限りあの夜の出逢いは必然で、それと同じようにこの別れもまた運命づけられていたのだから。
 しばしの間、男と女は何も言わずに見つめ合った。そして腕を伸ばしても届かない距離を双方が同時に踏み出すと、磁石と磁石が引き合うように互いの背を強く抱きしめる。そこから先にもはや言葉など何の意味もありはしなかった。

「ん……!」

 ――2人の服が床の上に落ちて一体どのくらい経っただろう。ベッドの上で抱き合った男女は官能のさざめきに身を任せ、逢瀬が許された最後の一夜を心の限りに堪能する。繰り返される口づけの合間にも愛撫が途切れることはなく、少しでも長くこうしていたいという思いになお勝るものなどない。

「……っ、ノア……!」

 愛と欲望をかき立てる声で切なく名前を呼ばれる度、ノアの身体を貫いていくのは妙なる歓びと悲しみだ。まかり間違えば彼のダガーが斬り裂いていただろう首筋へ、想いを込めたキスを落としながら男はルーチェの胸に触れた。両手いっぱいに感じる温かい膨らみへと唇を寄せ、果実のように色づいた蕾を舌で転がしては吸い付くと、その身の内に繋がれた獣が狂おしいほどに暴れまわる。本当の望みに目を背けたまま生きていくことなど不可能だ。獣は素直に欲している――決して手に入ることのないものを。

「ああ……ルーチェ」

 息を呑むほど甘い声に応え娘は殺し屋を抱きしめる。ほのかに香った煙草の薫りにその胸を締め付けられながら、ルーチェは想いの全てを込めて黒髪の男にキスをした。女の身体は既に潤って来たるべき時を待っていたが、これまでに得てきた知識の全てで相手の歓びに身を尽くし、恋しい相手に最高の時間を捧げる努力は惜しまない。愛した男に差し出せるものを自分しか持たないその身には、この夜を覚えていてもらえるなら何をも惜しくはなかったのだ。
 殺し殺される運命になければすれ違うこともなかった2人、そんな相手にこんなにも強く惹かれてしまうのはなぜだろう。夜が明ければもう2度と逢うこともできなくなると知っていながら、自分の想いが届くことなどあり得ないと承知していながら、それでも2人は秘めた愛故に焦がれた相手へと手を伸ばす。その純粋な衝動を止められる者などこの世のどこにも存在しない。

「あぁ……あ……!」

 重なる唇、零れる喘ぎ。息は上がり、もはや焦らされた身体は限界を迎える寸前だ。そして互いの身を繋ぐ場所へと相手の指先が触れた時、2人の目には潮が満ちるように遥かな切望があふれ出す……愛を交わす準備は整った。

「……っ!」

 ノアの腕に抱き上げられたルーチェはゆっくりと彼の上に降ろされ、蜜をたたえた彼女の泉へとそそり勃つものが飲み込まれていく。最初の夜こそその瞬間に痛みを伴いはしたものの、今の娘が感じているものは尽きず込み上げてくる快感だ。これまでの夜より一層深く身体の中心を貫かれ、女は自身の魂までもが満たされていくように思えた。
 男の側もしがみつくルーチェをしっかりと両腕でかき抱き、甘く濡れた温かさに包まれ思わず熱い吐息を零す。彼女が僅かにその腰を揺らせば引き絞られる感覚に震え、本能に突き動かされるままにキスを求めずにはいられない。逢えない間も思い出していた緑の眸を見上げれば、彼が愛した希望の煌めきは今も変わらずそこにあった。
 大きな歓びを覚えながらも安らぎも感じることができる、そんな経験はもう他の誰とも味わうことなどできはしない。もし一生分の幸福を3夜で使い果たしたと言われても、睦み合う2人は頷きこそすれ驚くことなどないだろう。だがどれほど強く惹かれていても相手の心は手に入らない、想いを封じて抱き合う男女は頑なにそれを信じていた。口に出せたなら全てが変わるであろうというその一言は、お互いを深く愛するが故に言葉にできはしなかったのだ。
 こんなにも愛しく思える相手とこの世界でめぐり逢えたこと、その切ない喜びを心に封じて2人は別々に生きていく。もう他の誰にもここまでの想いを感じることのない人生を、たった3晩触れ合った温もりの思い出だけを縁として。

「あ……!」

 一際深く穿たれてノアの奔流が弾けたその瞬間、ルーチェが意識を手離せたことは幸せだったのかもしれない。そんな彼女を殺し屋がどれほど優しいまなざしで見つめたのか、知っていたなら彼と離れて生きようとは思えなかっただろう。

「ルーチェ、俺は……」

 そして黒い服に身を包んだ男が去り際に言ったその言葉も、もし聞こえていたなら縋りついてでも彼を引き留めたに違いない。

「お前を愛している」

 2人が最後に交わした口づけはそっと触れるだけのものだった。

「ベラ、今まで世話になった」
「……あんたとの縁が切れるのは残念よ」

 娼館の入り口で待っていた相手への別れの言葉は短かった。振り返らずに雑踏の中へと消えていく背を眺めながら、かつては床を共にした女は微かな寂しさに目を伏せる。言いたいことなど尽きないだろうに不服を唱えず去ることも、不器用ながら彼なりの敬意を払われていたのだろうから。
 あの殺し屋はもう2度と誰かを愛することなどないのだろう。イザベラがノアの想いを汲んだのはひたむきな目に打たれたからで、自分が汚れ役を引き受けてもなおチャンスに賭けようとした。骨を折ってもいいと思うだけの信頼くらいはあったのだ。ルーチェも彼に惹かれていたことは言われずともわかっていたが、時計の針は許された時間の終わりを既に告げてしまった。
 しかし孤独な娘の意志の強さが幸福を遠ざけたとしても、女主人に許されているのは道を選ばせることだけだ。他人の決めた人生を生きてもそれは抜け殻と変わらない。自らの選択の積み重ねこそが生きる理由を作る以上、ノアの想いに全てを託して彼女に行けとは言えなかった。ルーチェの答えを受け入れる以外にできることなどなかったのだ。

「……幸せにおなりよ、ノアも……ルーチェも」

 一晩中賑わいの続く明るい歓楽街の片隅で、彼女が呟いた言葉は誰の耳にも届くことはなかった。