明くる朝、ルーチェは他の者たちが起き出す前に目を覚ました。精も根も尽き果てるほどに交わった身体の疲れ故か、夢さえ見ぬほどの深い眠りから醒めた割に頭は重い。身を起こし床にその足を着ければ煙草の匂いが立ち昇り、途方もなく大きい喪失感に娘の目には涙が滲む。だが実らなかった愛の残り香にいつまでも執着などできない。
 ルーチェは静かに階下へ降りると共用のシャワーの戸を開ける。最も客を取れる数名は部屋に浴室を持っているが、目覚ましい実績のない女たちはその待遇にはまだ遠い。1枚、また1枚と身に纏う衣服を肌から落とす度、知らない間にそれを着せてくれた男の顔が思い浮かんだ。そして彼と激しく求め合ったその裸体を隈なく濡らし、生温い水で頬を伝う雫を残らず洗い流していく。

「……っ」

 シャワーのレバーを掴んだままのルーチェの手には力がこもり、溜めてあった湯は早くも尽きかけ水は冷たさを増すばかりだ。それでも彼女は嗚咽を堪えてさらに水流を強くする。目元を拭った娘がようやくレバーを逆に捻った時、既にその身体は氷のように芯まで冷え切り震えていた。部屋へ駆け戻り微かな薫りが移った服をも着替えると、明け方の静けさをたたえた外へと小さな天窓を開け放つ。吹き込む風が濡れた髪を冷やし背中がぞくりと粟立ったが、しばらくの間ルーチェはそうして窓の傍に佇んでいた。
 馬鹿なことだとはわかっている。だがそうでもしなければ忘れ得ぬ想いと決別することはできなかった。今この時も魂が求めるノアの名前を封じるには、重ねた夜を思い起こさせるたまらなく恋しい薫りでさえ、1つ残らず消してしまわねば前になど進めなかったのだ。
 ――その日の午後から無茶をした彼女は驚くような高熱を出し、1週間もの長きに渡り店を休まねばならなかった。そんな娘に周りの者たちは呆れた表情を見せつつも、仕事の合間を縫いながら看病を申し出てくれたものだ。イザベラは店に出られないルーチェを咎めることなどなかったが、様子を見に来る度にどこか辛そうな表情を見せていた。それがなぜなのか娘に思い当たるようなことはないにせよ、女主人は自暴自棄になった理由がわかっていたのだろう。
 ルーチェが仕事に戻れるまでには10日の時を必要とした。そしてその晩から再び彼女の画がかけられることになっていた日、いつもと変わらぬ夕暮れ時に突然事件は起こったのだ。

「ねえ、何の音?」

 姦しいおしゃべりが響く中、表で何かを喚くような声に耳敏い1人が声を上げる。それに気づけたのは彼女の特に好奇心旺盛な性質たちからか。

「ちょっと見てくる」
「フィオナ、ほどほどにしときなさいよ」
「はいはい」

 白粉の小箱を棚に置き、娼妓はスカートの裾を翻して玄関の方へ走っていく。そんな姿を横目に見ながらルーチェは薄く口紅を引き、イザベラと同じ香水を一吹き白い首筋に吹きかけた。水揚げの後につけるつもりだったそれに手を触れずにいたのは、心のどこかにまだ迷いが残っていたからなのかもしれない。だが今の彼女は少女が大人を真似る時のように高揚する。否、そうでなければならないのだ……そうして生きると決めたのだから。
 しばらくの後に控え室まで女の影が戻ってくると、髪を結っていた年長の娼婦がからかい交じりに声をかける。

「フィオナ、何――」

 だがその言葉は続かなかった。それに違和感を覚えたルーチェも顔を上げ戸口を振り向くと――視線の先に映った光景に娘の世界が凍りつく。

「ルーチェ!」

 外の様子を見に行った女は強く突き飛ばされ倒れこみ、その後ろで叫んだ何者かが怪しげな姿を現した。手にした銃で彼女を脅し中まで引き入れさせたのだろう、異様なほどの喜びを露わに駆け寄る黒い巻き毛の男。死人のように青褪めたルーチェの前で止まったその者の名、相手がもはや変わり果てていても呪いはすぐさま蘇る。永遠に思い出したくなどない、過去と一緒に捨て去ったはずの不幸の元凶が名乗った名。

「……シルヴィオ、様……」

 虚ろな目で口にした彼女に、シルヴィオは唯一昔と変わらぬ黒い眸で笑いかけた。

「ルーチェ……やっと逢えた。探してたんだ、ずっと!」

 育ちの良い面影は消え失せ、狂気と執念で窶れた男は怯える娘を抱きしめる。

「ああ……やっぱり僕のルーチェだ。君が死んだなんて言った奴らはみんな地獄に落ちればいい」

 そう言った彼は場違いなほどに満面の笑みを浮かべると、瞬きさえせず立ち尽くしているルーチェに向かい語りかけた。

「さあ帰ろう。もうこんな売女の巣に隠れる必要はないんだ。デミチェリスの家で君のことを認めなかった叔父はもういないよ」
「え……?」

 娼館の中で娼婦を平然と侮辱したことも驚いたが、続いた言葉の不穏な響きに娘は思わず問い返す。不安を肯定するかのようにシルヴィオは大きく頷くと、無邪気な子供の残酷さもを感じさせる声で告げたのだ。

「“いなくなってもらった”んだ。だからルーチェ、さあ」

 ――彼は邪魔者をその手にかけている。そう気づいたルーチェは捕らえられた手を思わず強く振り払った。

「嫌、やめてください!」
「ルーチェ!?」

 男は一瞬目を丸くしたものの、理解できないといった表情で引き続き説得を試みる。

「なぜ? 早く帰ろう、ここは君みたいな人のいる場所じゃない」

 それは他の誰でもなくシルヴィオの方だと彼女ははっきりそう思った。ここは彼の力を振りかざして踏み荒らしていい場所ではない。やっと手に入れた自分の居場所は自身の手で護らなければ。

「私の帰る場所はここです。どこにも行きません!」
「そんなの嘘だ!」
「!」

 かつてのルーチェは反論しようと思うことさえなかっただろう。だが噛みつかんばかりの勢いで喚く男にその肩を掴まれ、きつく食い込んだ指の痛みに娘はぐっと顔を顰める。

「君は僕を愛しているんだから、一緒に来るのは当然のことだろう? 君は優しいから情が移ったのかもしれないけど……こいつらは君の近くにいていい奴らじゃないんだよ」

 この状況を理解できない娼婦たちを侮蔑の目で見下しながら、シルヴィオは薄ら笑いを浮かべると手にしたままの銃を向けた。

「ああ、君を引き留めるものなんて全部なくなればいいんだ」
「待ってください!」

 途端に上がった悲鳴よりも更に大きな声を上げながら、ルーチェは勇気を奮い立たせて拳銃を持つ手にそっと触れた。

「シルヴィオ様、どうか私の部屋へ。ここでは落ち着いてお話しすることもできませんから」

 今この場で何よりも優先すべきは他の者たちを護ることだ。彼女たちをシルヴィオの妄執で傷つけさせるわけにはいかない。そんな女の思いなど知らない男は喜んで目を細める。

「そうだね、こんな誰とでも寝るドブネズミたちといるのは気分が悪い。僕も君に聞いてほしいことがたくさんあるんだ」

 心を殺してシルヴィオの手を取り娘はその部屋を後にした。大きなホールを通り過ぎながらさっと視線を走らせると、片隅でこちらの様子を窺う赤毛の女が目に入る。ルーチェは素早く合図を送って時間を稼ぐと伝えつつ、震える足で男を先導し階上にある部屋へ向かった。
 これは自分が招いた災いだ。だからこそ彼女は命を捨ててもシルヴィオを止めるつもりでいた。だが命じられるままその言いなりになって生きていくつもりなどない。それだけは絶対にできなかった――自らの意志で生きる今は。