「あんたたち、一体何が起こったって言うんだい!? 何なのさ、あの男は!」

 2階の隅の部屋の戸が閉まると女主人は血相を変え、階下に残る娼婦たちの元へと駆け込みながら問い質した。恐怖のあまりすすり泣く者、蒼白な顔で立ち尽くす者。誰もが混乱する中で、男を引き入れてしまった女が震える身体を抱きしめる。

「わからない……でも、ここにルーチェがいるはずだって。逢わせなきゃ今すぐ殺すって。だからあたし……」

 イザベラはわっと泣き出した娼婦を手近な椅子に座らせて宥めると、相手の狙いが決まっていたことに苛立ちを隠さず吐き捨てた。

「……じゃあどこかであの子を見初めたってわけ? でもあんな男1度も見たことないよ。誰なのか全く見当もつかない……」

 考えてみれば彼女は確かに外出を極端に避けていた。それはいつかこういうことが起きると思っていたからかもしれない。自由な時間は干渉せずに過去も詮索しない主義とはいえ、もっと早く思い至っていればと女主人は唇を噛む。

「ベラ、だけどあいつ……自分のことデミチェリスって言ってた」
「……何だって?」

 娼妓の1人が口にした名前に彼女はさっと顔を上げた。

「デミチェリス――デミチェリスか、あの!」

 娼館は女の園とはいえ、そこで問題を起こす客が全くいないというわけではない。だがそんな時はいつも斜向かいにあるカジノの男手がやって来て、ここでの掟を知らない者に文字通りルールを叩き込む。日頃から先方と親しくしておくことを忘れないイザベラの、強かにして必要不可欠な危機管理は見事なものだ。
 だが本当にあの狂人じみた男がデミチェリスの出であるとしたら、裏の世界で生きている者にはこれ以上ないほど分が悪い。だが長く表に生きていたルーチェが否定しなかったということは、今も彼女の部屋にいる男は“本物”なのだと思われる。恐らく娘の人生をここまで変えてしまった原因も……。

「エマヌエラ、エマ!」

 女主人は持っていた煙管を折れそうなほどに握りしめ、最も身軽な素早い娼婦に一刻を争う目で告げる。

「今すぐバイシャ地区のアルカナ通りにあるバーで黒ずくめの男を探しておいで。もうそこにいるって信じるしかない。見つけたら相手が何を言おうと問答無用で引っ張ってくるんだ、早く!」

 そう命じられた女は返事もせぬまま何度も頷くと、既に日の落ちた表通りへと上着も羽織らず駆け出した。

「……同じものを」
「すぐに」

 ――その晩、男はまたしても馴染みの寂れた店を訪れていた。だがひと月に精々2、3度というのがこれまでの常であったところ、酒場の主人はこの2週間で既に5回は彼を見ている。その心境に何らかの変化があったことは想像がつくが、賢明な店主はそんなことを敢えて尋ねてみるほど愚かではない。
 2杯目の酒を注文したノアは無造作に新聞を取り出すと、インクの臭いもまだ新しいそれに注意深く目を向ける。その手の紙に金を払った経験など皆無に等しいが、わざわざそんな酔狂な真似をしたのにはある理由があった。『続く戦争、泥沼の2年』、『スラム街で画家の銃殺体、遺体には拷問の痕』……刺激的な文句が並ぶ紙面の真偽の度合いなど不明だが、その一面を飾っている記事が珍しく興味を引いたからだ。『デミチェリス家のお家騒動に決着、失踪したシルヴィオ氏の従兄アンドレア氏が正式に次期当主に決定』と大きく銘打たれた特集は数ページだけでは収まらない。
 琥珀色の酒で満ちたグラスをしばし傾けた殺し屋は、再び紙面に視線を落とすと緑の目の娘を想う。

“……ルーチェ……”

 愛した女を忘れるための努力など何をしても無駄だ。それでもあの別れから先、殊更まめに仕事をしているのが無関係であるはずもない。彼女の過去を知ってからどこかでデミチェリスの名に触れる度、護られたいわけでもない女を庇護してやりたくなってしまう。誰にも頼らず生きていくというルーチェの願いを尊重し、想いも告げずに去ったというのに何とも未練がましいものだ。
 しかしこうして紙面を追ってみてもシルヴィオの生死は定かではない。懇意にしている情報屋にその動向を調べさせてみても、確かなことは何1つわからず徒労に終わっただけだった。どうやら本家は道を誤った総領息子に見切りをつけ、対外的には行方不明ということで処理を進めている。彼らは恐らく本人の居場所を把握してはいるのだろうが、もはやシルヴィオが帰ったところで喜ぶ者などいないだろう。
 どこかで力尽きていてくれればルーチェは怯えず生きていける。しかし全てを捨てて出奔するほどの執着は決して侮れない。いつか彼女の生存に気づき、その居所を見つけ出すようなことがもしも現実にあるとしたら? 戻るべき場所を既に失った狂人は一体何をする? そしてそんな状況でルーチェは誰に助けを請えばいいのだろうか……?

“……関係ないだろう。どちらにせよ俺の出る幕はない”

 際限なく膨らむ考えにノアは小さくかぶりを振った。何よりもルーチェの傍にはあのイザベラがついているではないか。愛弟子のためなら誰に対しても一歩も退かぬその覚悟に、全幅の信頼を置いていたからこそ彼は自ら去ると決めた。また裏社会ではそれなりに知られた殺し屋にも危険は多く、恋しい女が望まなければ無理に連れ出せる立場でもない。
 全てはこれでよかったのだ。少なくともそう思いたかった。あと1度でも逢ってしまえばもう想いは決して止められない。だからこそ男はこの地を離れ2度とは戻らぬつもりでいた。それでもルーチェを忘れることなどできはしないとわかっている。だがノアに残された唯一の道は見知らぬ土地で彼女を想い、その幸福を祈ることだけだという事実は変わらなかった。
 ――しかし施した化粧も落ちるに任せた汗まみれの娼婦は今宵、運命が紡ぐ糸を繋ぐように殺し屋へ遣わされたのだ。

「いらっしゃ……」

 その時突然開いた扉は雷鳴の如き音を立て、静かな空気を劈くそれに主人は思わず口を噤む。開け放たれた戸口から吹き込む夜風が服の裾を煽り、男が見ていた新聞までもがカウンターの下へと落ちた。先客に対する配慮が足りない相手につと眉を寄せれば、肩で息をした女が1人殺し屋の姿を凝視する。そしてどこかで見たような顔だと気づいた彼が記憶を辿る前に、脚を震わせた娼婦は畏怖さえ感じさせる声で尋ねた。

「あんた――あんた、イザベラの知り合い!?」

 それが娼館で働く女とわかった男は小さく頷くと、ただならぬ様子を訝しみながら来訪の理由を問い返す。

「ベラがどうかしたか」
「ああ……よかった、あんたなんだね!」

 涙を浮かべた娼妓は駆け寄るや否やノアの腕を掴み、ブルーグレーの双眸に最後の希望を託して打ち明けた。

「お願い、今すぐ来て。ルーチェが危ないの……!」
「!」

 その言葉だけで男は何があったかを瞬時に察すると、引き絞られた弓から放たれた矢のようにバーを飛び出した。服従を余儀なくされていた獣はあらゆる鎖を引きちぎり、ただ1人愛した女を救えと狂わんばかりに吠え立てる。どれだけ努力を重ねたところで想わずにはいられなかった、ルーチェの希望を絶やさぬためなら禁を犯しても構わない。
 時間も場所も飛び越えたようにパライソの前へと着いた時、男はダガーの柄に触れながら最後の迷いを振り払った。シルヴィオが脅威であり続けるなら選べる道は1つだけだ――殺し屋のやいばは研ぎ澄まされて“その時”を待っているのだから。