「こんな部屋まであるなんて、まるで本当の娼婦みたいだな」

 女が扉を閉めて振り返ると、男はぞっとするとでも言わんばかりに辺りを見回してそう言った。

「まさかそうだなんて言わないだろうね? ルーチェ」

 彼が娼妓をどう見ているのかは嫌と言うほど思い知った。ルーチェへと笑いながら投げかけられた、からかい程度のつもりの言葉をどんな思いで聞いているのかなど推測できようはずもない。あの惨劇が起こった夜から先、彼女がどうやって生きてきたのかなど想像さえもできないだろう。そう思った瞬間、彼への恐れは霧が晴れるように消えていく。

「それ以外の何にお見えですか、シルヴィオ様」
「――えっ?」

 その言葉は自然と口に出た。巻き毛の男は目を瞬くと困惑した表情を見せる。

「私はこの娼館で1年以上を過ごしました。私たち下々の者は、働かなければ食べていくことはできません」

 今のルーチェはもはやかつての逃げるしかなかった女ではない。これが冗談でないと男が気づくまでの時間は短かったが、その顔色が見る間に真っ赤に変わり乱暴に掴みかかられても、彼女は声1つ上げることなく真っ直ぐに相手を見つめていた。

「じゃあ君は……君はもう穢れてるってことか!? 何てことだ、君は……!」

 シルヴィオは自分の思い描く範囲でしか世の中を見ることができない。誰もが皆デミチェリスのような暮らしはできないということも、乏しい彼の想像力ではきっと理解できないのだろう。恋しい女がその身を売って糧を得ていたという事実は、男の器で受け止めきれる事態を大きく超えている。

「僕を愛しているのによくもそんなことを! 売春婦なんて、世の中から消えてしまえばいいような奴らじゃないか! 僕のところにすぐに来てくれればこんな底辺の女に身をやつすこともなかったのに!」

 男は襟元を締め上げたその手で娘を寝台の枠へと叩きつけ、ルーチェは鋭い痛みに思わず顔を顰めて咳き込んだ。涙を浮かべて顔を上げればシルヴィオの冷たい目が映り、黒い眸の奥には滲む狂気がはっきり垣間見えた。

「これで君を悪く言う奴らがまた増える。でも安心していいよ、ルーチェ。僕はそれでも君を見捨てたりしない……正直、正式な妻にし辛くなった感は否めないけどね」

 今なお想いを寄せる相手への言葉とはとても思えない侮辱、それでも娘は自分の意志を懸けて退くことなどできはしない。彼の妻になるつもりもなく、そもそもシルヴィオを愛することなどどうしてルーチェにできるだろう。だが心を奮い立たせてもう1度口を開こうとした瞬間、彼女を再び暗闇の中に突き落とす一言が耳に届く。

「せっかく君の親もいなくなったのに何て結果だ。先に殺してくれた奴には感謝してたのに」
「……え……?」

 “先”があるのなら“後”がある。そしてその言い方は、さも彼自身も……。

「君の両親を襲った奴が君にも手をかけたんだろう? 危うく君も死んだと信じるところだったよ。僕が頼んだ相手には絶対に君を傷つけるなと言っておいたんだけどね。仕事を始めるのが遅すぎた、使えない奴だった」

 頑なにシルヴィオの意向に沿わずルーチェを護ってくれた両親。2人が目障りだったのはまるで共通の話題であるように、衝撃的な真実は呆気ないほど簡単に明かされる。その口ぶりから罪悪感など感じていないのは明らかで、娘は崩れ落ちずに立っているだけでもはや精一杯だ。女と家族は常に命を危険に晒されていたにせよ、彼女を愛していた男までがこんな考えで動いていたなど1度も思ったことはない。また思えるはずもなかっただろう――本当に相手を想っているならそんなことはできないのだから。

「どうして……そんなことを……?」

 ルーチェが震える声で言えたのはただ一言それだけだった。シルヴィオは女の青褪めた顔を忌々しそうに眺めると、なぜわからないと言わんばかりに彼女に向けてこう言い放つ。

「邪魔だったからに決まってるじゃないか! 君とすぐに結婚できなかったのは妨害する奴らが多すぎたからだ。でもやっとみんないなくなった。だからもう誰にも遠慮しなくていい……邪魔する奴は消してあげるよ。君のためなら何人殺したって構わない。ルーチェ、これでやっと僕らは本当に愛し合えるんだ」

 最後は嬉しくてたまらないという顔で告げられた恐ろしい言葉。彼の目はこちらを向いていてもそこには何が見えているのだろう。自分のために人が殺されて喜ぶ者と思われている、ルーチェにとってはその考えこそ寒気がするほどおぞましい。懐かしい灰青の眸の記憶がふと彼女の胸をよぎるが、殺し屋は依頼された仕事でしか他人を殺めたりはしない。シルヴィオのように誰彼構わず殺すことなどあり得ないのだ……だからこそ終わりを望んだ娘を意に反し生かしたのだから。
 ここまで認識が狂っているなら理解ができ得るはずもない。やるせない怒りを抱えたままにルーチェは力なく問いかける。

「あなたは……なぜそんなにも私を愛してくださるのですか」

 想いを聞けば喜んでくれると固く信じて疑わずに、男は子供のような笑顔を浮かべて無邪気に語りかけた。

「理想通りだったからだよ。前にも言ったじゃないか、君は綺麗で、優しくて、従順で……そして僕を誰よりも愛してくれる」

 彼は誰のことを言っているのだろう。それはこの世のどこにも存在しない、シルヴィオの心の中にだけ生きるルーチェの名を持つ幻だ――今ここで向かい合う娘ではない。

「どなたのことです?」
「えっ?」

 それは自分自身でも驚くほどに冷酷に響いた声だった。

「それは私ではありません。私はあなたを愛したことなどただの1度もないのですから」

 見知らぬ女を見るかのように疑念に満ちたまなざしを向け、男はルーチェに一歩近づくと苛立たしそうに問い返す。

「何を馬鹿な……ルーチェ、もう遊びは終わりだよ。どうしたんだい? 君らしくもない」
「私は今まで生きてきた中で最も自分らしく振る舞っているつもりです。そうお感じにならないのなら、やはりあなたは本当の私をご存じないのでは?」

 他人の思うがままに流されて自分を持たずに生きた日々。この館に足を踏み入れた時に弱く不幸な娘は死んだ。生き残ったのは自分の力で選んだ道を歩んでいる、何者にも縛られずに生きる強さを勝ち得た女だけだ。

「本当に相手を愛しているなら手に入れることが全てではないと気づくはずです。相手の幸福を遠くから願う愛も、その想いの価値は同じなのですから」

 彼女は愛した男と離れることで自身の想いの証とした。その愛情が劣ったものだとは決して誰にも言わせない。

「……意味がわからない。だって君の幸せは僕といることじゃないか、なのに」
「違います、シルヴィオ様。私の幸福は別の場所にあります」
「そんなはずはない!」
「お願いします……これ以上私を苦しめるのは止めてください。それは愛ではありません」

 シルヴィオの思いは執着だ。全ての者が跪き首を垂れるような名家の出でも、彼には他人を自分が思った人間に変えることなどできない。人が皆それぞれ意思を持って人生を歩んでいけるように、ルーチェは枷から解き放たれた自由な1人の女なのだ。誰かの言った言葉に従って行動する人形ではない。目覚めた彼女は自身の心が惹かれるままに恋に落ちた。だからこそルーチェはその真実を口にすることができたのだから。

「私には愛する人がいます。でもそれはシルヴィオ様ではありません」