「ノア!!」

 火花を散らせた銃口、そこから放たれた弾が真っ直ぐに貫いたのは殺し屋の右腕だ。彼は矢面に立った女の元へ信じられない速さで踏み込むと、その身を突き飛ばす代償として利き腕を凶弾に差し出した。ルーチェが離れた瞬間にこうなる未来は既に見えていたが、それでも彼女を庇わないという選択肢などありはしない。
 ルーチェはノアへの想いが死よりも強いことを行動で証明した。そして彼もまた愛に命を捧げる覚悟をその身で示したのだ。今ここで見殺しにするくらいなら助けたりはしなかっただろう。あの夜2人が出逢った時から運命は回り始めていた。それをこんなところで終わらせられるほど往生際がいいつもりはない。
 燃えるような熱さと続く激痛に意識が揺らぎかけるものの、シルヴィオに次の弾を撃つ猶予を与えるわけにはいかなかった。生き延びるために選べる道は最初からたった1つしかなく、感覚を失くした右手に鞭打ちノアはダガーを握りしめる。そして銃声の木霊が広い屋敷から消え去るのを待つより早く、愚かな男の首を掻き斬るため一瞬で間合いを詰めていた。

「――っ!」

 だが刃先を振り抜く瞬間に走った鋭い痛みに手が狂い、その先端が掠めた場所からは噴水のように血が吹き出す。シルヴィオは銃を放り出し狂ったように喚き散らしているが、傷は皮1枚斬り裂いただけで絶命するには程遠い。頼りの武器をも失い、精神の均衡も保てない相手などもはやノアの敵にはならないだろう。しかし……。

“こいつは生かしておけない”

 自ら定めた禁を破れば奈落の底まで堕ちてしまう。だが生きている限りシルヴィオは彼女をいつまでも狙い続けるだろう。今、この場でその息の根を止めて完全に禍根を断ち切らねば――。

「――だめ!」
「!」

 しかし心臓を貫こうとしたノアが血まみれの腕を引いた刹那、ルーチェは一言そう叫ぶと彼の背を抱きしめて引き留める。振り返れば彼女はあふれる涙で両の頬を濡らしていたが、紅く血に染まったドレスでさえもこよなく美しいと思えた。若葉と同じ色をした眸が殺し屋のまなざしを捉え、薄く紅の引かれた唇から囁かれるのは懇願だ。

「ノア、もう止めて。こんな人、あなたが手にかける価値もありません」
「ルーチェ、だが――」
「お願い……!」

 固く瞑られた娘の目からは新たな涙が零れ落ち、それを見たノアはダガーを下ろすとその手でルーチェを抱き寄せた。いつの間にかカジノの男たちは3人の周りに立っていて、シルヴィオが取り落としていた銃は既に彼らの手に渡っている。

「くそ……くそっ、何で……!」

 震える声を聞いた殺し屋と女は同時に顔を上げた。何不自由なく生きてきた男はしっかりと寄り添う2人を見て、彼が描いていた世界との齟齬を認識できずに泣き叫ぶ。

「うわああああああああああ!!」

 そしてあたかも糸が切れた人形のように床へ倒れ伏した後、シルヴィオはゆっくり身を起こしながら焦点の合わぬ目で嗤った。

「ふ……ふふ、ふ……はは」

 その姿に正気を見出すことなどもはや誰にもできないだろう。彼はもう2度とかつての人懐こい青年へと戻れはしないのだ……今やデミチェリスの者でさえ誰1人それを望みはしないのだから。
 男たちに引きずられ廃人がその部屋から出て行った後、全てが終わった場に残ったのはノアとルーチェの2人だけだ。初めて出逢った夜と同じ血の臭いの中で見つめ合うと、殺し屋と娘は言葉にせずとも同じ想いを感じていた。女の頬に飛んだ血の跡を男は左手で拭ったが、その手もまた血に汚れていて白い肌はより穢れてしまう。だがルーチェの両手はそんな彼の手を慈しむように包み込み、彼女は未だ血に濡れたそれを頬に当て相手の名を呼んだ。

「ノア……!」

 その声は息をすることさえ忘れてしまえるほどに愛しかった。今なお血の滴る右腕で男は娘を抱きしめると、永久とわの別れを覚悟した相手の温もりを強く確かめる。しかしその時ふいに扉の陰から聞き慣れた声が響き渡った。

「――やってくれたね」

 戸口を振り向く2人の目には腕を組んだイザベラが映る。

「ノア、来てくれたのはありがたいけどちょっとやりすぎじゃないかい。しかもあいつはデミチェリスだって言うじゃないか。これは責任取ってもらわないとね」
「イザベラさん、そんな……!」

 淡々と告げた女主人にルーチェは驚きの声を上げる。だがイザベラはきつくその眉を寄せると鋭い口調でこう言った。

「ルーチェ、当然あんたもだよ。あいつの目当てはあんただったんだろ、おかげであたしの商売はめちゃくちゃだ」
「ベラ、お前――」
「黙って聞きな、ノア。ルーチェも」

 そして血塗れの部屋に佇む男女に煙管の先を突きつけると、赤毛の女はいつもよりも低い声で罰を宣告する。

「2人とも、今日限りうちの店を出入り禁止にさせてもらう。どこへなりとも行っちまいな。もう2度とあんたたちの顔なんて見たかない」
「――!!」

 その言葉は娘にとって頭を殴られたような衝撃だった。自分で生きていくための手段を再び取り上げられてしまう……それを彼女がどれほど恐れていたのかはイザベラも承知のはずなのに。

「そうだ、ルーチェ」

 だが1度は背を向けた女主人は何食わぬ顔で振り返ると、呆然と立ち尽くしているルーチェに意味深な表情で言った。

「あんた、うちを出て行った後は身体を売るのは止めておくれよ。まだ全然教え足りないんだ、そんな程度でパライソの娼婦が務まると思われちゃうちの評判上がったりなんでね。ダンスでも朗読でも他に教えたことなら大目に見なくもない、食うならそっちで食っていってちょうだい」
「……!」

 娘がはっとその顔を上げればイザベラはついに笑い出す。ルーチェはやっと理解できた……女主人の本心を、そしていつかノアを愛しているかと唐突に尋ねられた理由を。イザベラは“真実の愛”でなければ客との恋はご法度と言っていた。それはつまり――。

「さあ、わかったらさっさと出てお行き。うちにはルーチェなんて娼婦はいなかったんだ。早くどっかへ消えておくれ――それもできるだけ遠くにね」

 煙管の先を振りながら女は部屋を出るように促した。そして解放された娼婦たちの手も借りつつノアの手当てを済ませ、血のついた服を着替えた2人が妓楼を出て行こうとした時、玄関ホールに面した上の階から呼びかけが降ってくる。

「ルーチェ、忘れもんだよ!」
「!」

 投げ降ろされた革製の鞄を娘は慌てて受け取った。困惑して見上げるルーチェに、欄干に腕をかけたイザベラは楽しげに目を細めて告げる。

「あんたの給料。これであんたとの縁は終わりだ、本当にね。もう戻ってくるんじゃないよ」
「イザベラさん……!」

 娘は鞄を抱きしめると恩人へ深く頭を下げた。ホールに並んだ娼妓たちもまたその目に涙を浮かべつつ、ルーチェがやっと手にした幸福と旅立つ時を見守っている。ノアは若干血の気の引いた顔を上げ旧知の女を見上げると、左手で持った帽子を軽く掲げて言葉の代わりとした。

「長い間お世話になりました。ありがとう……さようなら!」

 そして愛する男の傷を庇うように殺し屋の背を支えながら、来た時のように自らの意志でルーチェは館を出て行った。たった1人の客しか知らずに娼館で生きてきた娼婦は、その短い夜の女としての人生を慎ましく終えたのだ。

「馬鹿な2人だよ、本当にね」

 女主人の呟きが何とも嬉しそうに響いたことを、階下で喜びに沸いている娼婦たちが知ることはなかった。